TOMONORI引退記念インタビュー第8弾 / OGUNI GYM所属・TOMONORIさん 前編

昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORI選手が、現役生活にピリオドを打ちました。

MMA-ZENではTOMONORI選手の輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。第8回はいよいよTOMONORI選手ご本人にご登場いただき、興味深いお話を伺っていきます。

日本キックボクシング史にのこるタイトルホルダー・TOMONORI選手が語る若かりし日々。超貴重写真を交えて贈る、ファン垂涎のスペシャル・インタビュー前編。

▲二十歳の頃。タイ国の殿堂ラジャダムナン・スタジアムでのデビュー戦。日曜日だったが、なぜか平日の選手との試合が組まれたという。(写真はTOMONORI選手提供)

伝統空手から格闘技の世界へ

TOMONORI選手と格闘技の出会いというのは、ブルース・リーとかジャッキー・チェン等の映画スターだったという話を、どこかの記事で読んだような記憶がありますが。

ジャッキー・チェンですね。時期的には小学校に入学する直前だったでしょうか。ジャッキーがトレーニングしてる場面なんかは、面白くてよく観ていました。武道家の目線で観るようになってからはブルース・リーの映画もよく観ましたね。

はじめて習った格闘技が伝統派空手というのは有名な話ですが、どれくらい習っていたんですか?

中央区の丸與志舘という道場で、小学一年生から中学三年生までやってました。中三の頃には伝統派の空手とフルコンの空手を並行してやっていました。

伝統派を10年弱ですか。長くやっていたんですね。並行して習っていたフルコン空手というのは、たしか正道会館でしたよね?

はい。中学三年生のときにフルコンタクト空手の正道会館が札幌にできたんです。当時は中村記念病院のあたりに建っていたのかな。友人の大宮司進(初代M-1スーパーフェザー級王者)が「正道会館ができたぞっ」って知らせてくれたんで一緒に入会しました。

▲十代の頃。友人のライブ会場でカンフー・ショーを披露するTOMONORI選手。脚本などをすべて自身でプロデュースし、大盛況だったという。(写真はTOMONORI選手提供)

大宮司氏と夢を語り合った学生時代

大宮司進さんとは、そんなに古いお付き合いなんですか?

おなじ中学校だったんですよ。クラスは違ったけど、いつも一緒にいて。大宮司は合気道をやっていて、僕は空手だったでしょう?格闘技つながりで、なにかと気が合ったんです。バックスピンキックの練習なんかを二人でよくやってました。

ちょうどその頃に旧K-1が始まって、リングスなんかも盛り上がっていましたからね。ディック・フライとかが出てて。「リングスに出てみたいなぁ」って思っていたんです。

リングスですか。懐かしいですね。TOMONORI選手が中学生のときって、格闘技雑誌はどんなものがありましたか?

格闘技通信にゴング格闘技、月刊フルコンタクトカラテなんかをよく読んでいました。「どこの団体になるかはわからないけど、絶対にチャンピオンになろう」って大宮司と話していた頃ですね。

伝統派とフルコン、いま振り返って役に立っているのはどちらですか?

伝統派ですね。伝統派の踏み込みの速さ、それからカウンターの技術。僕がカウンターを得意としているのは、伝統派空手をやっていたおかげだと思うんですよ。踏み込みを例にとっても、ボクサーの踏み込みとはちょっと違うんですね。

▲二十代前半の頃。大宮司氏が構えるミットへ蹴りを放つTOMONORI選手。バーベキューの最中だったのか、大宮司氏はソーセージを咥えている。(写真はTOMONORI選手提供)

アマ・デビュー戦での衝撃KO勝利

ボクサーといえば、TOMONORI選手もアマチュア・ボクシングの経験がありますよね?試合でKO勝ちしていたという目撃情報が過去のインタビュー記事にありますけれども。

高校生の頃に中央区の体育館で習ったことがあります。大宮司も北区体育館でアマ・ボクシングをやってたんで、同じ大会に出場したりしてました。僕がKO勝ちしたというのは、多分デビュー戦のことを言ってるんじゃないかな。30秒か40秒で決着したんで憶えていますよ。

面白いのは相手が倒れちゃったというところですよ。高校生の試合ならレフェリーストップが殆どでしょう?完全に倒れちゃうというのは衝撃的な光景ですからね。

あのときに初めて人間を思い切りブン殴ったんですよ。それまでも伝統派の試合をやってて、「これを当てたら倒れるんだろうな」と思ってはいたんですけどね。実際にパンチを当てて振り切ったのはあれが最初。ボクシングは高校の3年間続けました。

そして卒業後、上京されるわけですね。アマチュア修斗を目指したという記述がネット上にはあるのですが、実際のところはどうだったのでしょう?

▲二十代前半の頃。左の白タンクトップがTOMONORI選手。右の白タンクトップが大宮司氏。TOMONORI選手の右隣に座っているのは国際式ボクシングの庄司恭一郎選手の若かりし頃。(写真はTOMONORI選手提供)

東京へ。アマ修斗にもエントリー

一応、最初に探そうと思ったのはキックのジムなんですよ。でも当時はネットも発達してなかったし、タウンワークのような媒体でしか情報がなかったんです。文字情報だけじゃどんなジムか分からないし、しばらくは決まったジムに所属せず、市の体育館で身体を動かしていました。

その体育館で出会ったのがアクティブJの練習生。仲良くなって、教室がある阿佐ヶ谷まで見学に行ったら、トレーナーの方が「お金はいらないからおいで」と言ってくれて。それでアクティブJに通うようになったんです。

では修斗のジムに入門したというわけではなかったんですね。

そうですね。ただ、アマチュア修斗の大会に出てみたくてエントリーはしたんです。でも体重の合う相手がいなくて、出場は見合わせたんです。

なるほど。そういうことだったんですね。

UFCがまだ「アルティメット大会」って呼ばれていた頃ですよ。ミノワマン選手が僕がエントリーしたアマ修斗の大会に出場していたことを憶えています。もしもあの時に試合が組まれていたら、本格的にMMAの世界に足を踏み入れていた可能性は高いですね。

もし出場していれば日本MMA史も変わっていたかも知れませんね。しかしTOMONORI選手はタイへムエタイ修行へいきます。これはどういった経緯だったのでしょう?

先にタイで修行していた大宮司が「タイ、ハンパねえよ」って言ってるのを聞いたのが始まり。たしか上京して半年くらいで渡タイしたと思います。アクティブJのタイ支部があったので、そこで練習をしていました。

▲二十歳の頃。はじめてのタイ修行へ。アクティブJ・タイ支部の面々と記念撮影。右から二人目の方足を上げているのがTOMONORI選手。(写真はTOMONORI選手提供)

夢の世界・ラジャダムナン

タイ支部って、どんなところだったんですか?

セレブの豪邸の庭に練習場があるだけなんですけどね。サンドバックなんかも揃っていて、タイ人のコーチを雇ってるみたいな。スタッフは全員タイ人でしたね。

TOMONORI選手はタイでデビュー戦を行っていますが、舞台はラジャダムナン・スタジアムですよね。これもすごいと思うんですが、どういった経緯で決まったんですか?

とりあえず「試合してみるか?」という話になったんで、「する」って答えたんですよ。そうしたらジムのスタッフが軍隊から選手を一人連れて来て、「こいつとスパーリングしてみろ」という話になったんです。

なるほど。実力をテストするってことですね

はい。それでその選手をKOで倒したんです。そうしたらラジャダムナンで試合が決まっていたって感じ。最初は田舎のスタジアムで試合をこなしていければいいな、くらいに思っていたんで意外でしたね。

面白い。漫画「空手バカ一代」に出てくる添野義二さんのタイ修行を思い出します。

でも、さらに一悶着ありましてね。試合当日、僕のトレーナーが慌てて「試合はやめだ」って言ってきたんです。「危ないから今日は中止だ」と。

なにが危ないんです?

日曜日の試合だったんですけど、平日の選手が出てきたんですよ。それもランキングに入ってるか入ってないかっていうくらいの選手だったらしくて。それでトレーナーも「危ないから今日は無しだ」って。

ははあ。日曜日はいってみれば新人戦の日ですからね。なのにランカークラスが出てきたと。で、どうなったんです?

「一ヶ月みっちり練習したんだし、やらせてくれ」と頼んでやらせてもらいました。それで、多分アドレナリンが出まくっていたからだと思うんですが、試合が楽しくて楽しくて。本当にもう夢の世界って感じ。

客席からどんな風に見えているかっていうのも客観的にイメージできたし、リングで戦っている自分に酔いましたね。「あぁ、俺は今、ラジャダムナンで戦っているんだな」って。後にも先にもあの試合だけですよ、試合をしていてあんなに楽しかったのは。

▲「夢のような世界」と語った、ラジャダムナン・スタジアムでのデビュー戦。ランカークラスの選手を相手に判定負けだった。(写真はTOMONORI選手提供)

OGUNI GYMを選んだ理由は線路の看板だった

その半年後には日本の後楽園ホールで試合を行っています。

その試合もプロテストを受ける前にカードが組まれていたんですよ。テストに受からなかったらどうするんだって思いましたけどね(笑)。というのは、ラジャダムナンでの試合をアクティブJの大賀代表も見ていて、こいつは日本で使おうと決めていたようなんですね。

期待のルーキーだったわけですね。でも、この次の試合からは現NJKFで試合をしています。移籍の経緯というのは?

アクティブJにいた頃は、ほとんど貝沼慶太さんとマンツーマンでの練習だったんですよ。

当時の貝沼慶太さん(元全日本バンタム級チャンピオン)といえば、脂の乗ってる全盛期じゃないですか。

そうそう。だから今から思えば貝沼さんとみっちり練習できたっていうのは、本当にありがたい話なんです。でも当時は他の練習生と交流できる環境もほしかった。

加えて、Jネットも黎明期で選手層が薄かったんですよ。経験値を積みたい僕としては物足りなく思えたんです。

わかります。で、OGUNI GYMを選んだ理由というのは何か特別な理由があったのでしょうか?これは誰に聞いても知ってる人がいなかったのですが・・・。

線路沿いにOGUNI GYMの看板が出ていたんですよ。「練習生募集」って書いた看板が。ちょうど、荻窪から板橋に引っ越したところでしたから、「こっちのほうが近くて通いやすいな」って思ったのがきっかけですね。

もしかして、それだけの理由ですか?

そうですね。それで見学にいったら斉藤会長が対応してくださって。「こっちで練習するにはどうしたらいいですか?」って聞いたら、色々と教えてくださったんですね。

不思議な巡り合わせですね。だって、斉藤会長のところにいたからこそ巡ってきたチャンスというのも数知れないわけでしょう。もちろん、OGUNI GYMに入門していなければパイブーンコーチとの出会いも無かったわけで。

やっぱり、パイブーン先生の練習は大きかったですね。最初に練習を見学したとき、ビックリしましたから。

わかりました。では続く中編では、OGUNI GYM入門からスターダムにのし上がるまでのお話を詳しく伺っていきたいと思います。

TOMONORI選手インタビュー中編へ続く>>

【TOMONORI プロフィール】1977年、札幌市出身。本名・佐藤友則。WMCインターコンチネンタルフライ級王座、UKF世界バンタム級王座、WBCムエタイ・インターナショナルフライ級王座等々、獲得タイトルは多数。本場ラジャダムナン、タイ国王生誕記念試合等でKO勝ちを収めているところも、日本人選手としては特筆もの。2018年10月28日引退。現在は札幌市東区に自身のジム「grabs」をオープンし、後進の育成に力を注いでいる。生涯戦績は59戦38勝19敗2分け。OGUNI GYM所属

ジム・道場データ

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山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。