TOMONORI引退記念インタビュー第7弾 / OGUNI GYM会長・斉藤京二さん 後編

昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORIが、現役生活にピリオドを打った。

MMA-ZENではTOMONORIの輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。第7回はひきつづき、TOMONORIの恩師でもあるOGUNI GYM会長の斉藤京二氏にご登場いただいた。

インタビュー前編では斉藤会長の現役時代の秘話、指導者としてのスタンスなど興味深いお話を伺った。後編ではTOMONORIとの出会いから引退まで、存分に思い出を語っていただく。ファン垂涎のスペシャル・インタビュー後編。

▲2016年に札幌で行われた、WBCムエタイ・インターナショナル王座を獲得した際の祝賀会での師弟。駆けつけた斉藤会長は「TOMONORI、おめでとう」と声をかけ、乾杯の音頭をとった。


TOMONORIからの直談判だったUKF世界戦

それではTOMONORI選手との思い出に話題を移したいと思います。TOMONORI選手がOGUNI GYMに入門してきた時のことを憶えていらっしゃいますか?

憶えています。たしかね、1997年じゃなかったかな。

OGUNI GYMに入門する以前に、すでにキックボクシングを修行していたそうですね。

そう。彼はタイで修行を積んでいたんですよ。向こうでデビューして2戦くらい経験していた。そういった経歴はうちに入門するときに聞きました。「なんでうちに来たの?」と、そこまでは聞かなかったんだけどね。

TOMONORI選手の経歴は面白いですね。スターダムにのし上がる前の時点で黒星がかなりありますし、日本タイトルを獲るまえにUKFという海外の団体で世界タイトルを獲っています。当時としてはかなり異色です。

そうそう。異色だったと思います。でも、彼が自分で持ってきた話だったからね。

この異色路線はTOMONORI選手の発案だったのですか?

そうです。海外とのコネクションを彼が持っていたんですよ、最初から。当時、日本のUKFを統括していたマネージャーと面識があったのね。そのマネージャーがいろいろなルートを持っていたから、TOMONORIは直接やりとりが出来たんです。ですから、UKFから私に話がきたわけではないんですよ。

選手自身がどこに目標を置くかが大切

するとTOMONORI選手が「UKFという団体で世界タイトルマッチの話があるんですが、やってもいいですか?」という話を持ってきたんですね?

そう。彼はね、そういったところはガンガン言ってくるタイプでしたね。僕も選手が目標を持ってくれるのは良いことだと思ってるから、すぐにOKしましたよ。

それは面白いお話です。当時のUKFといえば、それほど権威のある団体ではなかったわけです。会長としては「そんなの目指さないで、打倒ムエタイ一本でいけ」と言って却下しても、おかしな話ではなかったのではありませんか?

それはなかったですね。どこの団体が良くてどこの団体が悪いといったことよりも、選手自身がどこに目標を定めているのか、そこを大事にしたかった。特にTOMONORIの場合はアメリカまで単身乗り込んで、ベルトを獲ってくるという自信を見て取れましたからね。漠然とした目標しかないと、いつまでも漠然としたものしか残らない。そうやって手の届くところからステップアップしていくのは大いに結構なことだと思います。

▲札幌市東区にあるGRABSには、TOMONORIが獲得したベルトが飾られている。前述のUKF世界タイトルをはじめ、海外主要団体のベルトを総なめにした。

強い気持ちを感じたラッタナデェ戦

会長がTOMONORI選手のベストバウトを選ぶとすれば、どの試合を挙げられますか?

ベストバウトか。そうですねぇ・・・・。あのタイ人とやった試合かな。ラッタナデェというタイ人との一戦なんですがね。一回目は1Rにノックアウト負けをして、リターンマッチでは逆に1Rノックアウト勝ちをしたんです。

2007年7月にディファ有明で行われたラッタナデェKTジム戦ですね。

そうそう、KTジムKTジム。やっぱりあの試合かな、ベストバウトは。あの試合はね、彼の気持ちがすごく出ていたんですよ。試合で勝った負けたというよりも、1Rでノックアウトされた相手にリベンジをするという強い気持ち。見事にリベンジを果たしてくれたときは、私も感動しましたね。あとはフライ級最強トーナメントも思い出深いね。

2006年に行われたMACH GO GO 52kgトーナメントですね。各団体の王者クラスが一堂に会して、フライ級実力日本一を競うトーナメントでした。

あのトーナメントで優勝してくれたときも嬉しかった。でも、より感情移入できたのはラッタナデェ戦でしょうね。他にもいい試合がたくさんあるんですけどね、気持ちが一番伝わってきたのはラッタナデェ戦ですよ。

1Rでやられたら、もう戦いたくないっていうのが普通でしょう?それを絶対にリベンジするからといって再戦を直訴してくるんだから。

▲ベストバウトに選んだラッタナデェ戦の大会パンフレットを手にする斎藤会長。他の大会パンフレットもすべて保管しており、たまに読み返しては選手との思い出に浸る時間を作るという。

重量級の体格があったなら、旧K-1でスターになっていたね

TOMONORI選手から再戦を直訴してきたんですね。

終わってすぐにね。私も当時は連盟の役職には就いてなかったから、私のほうから連盟にお願いしてね。とにかく、選手がそういった気持ちになってくれたことが嬉しかったし、大事にしたかった。そういう強い気持ちなら、なにかやってくれるだろうと。

その頃はパイブーンさんが指導されてたんですか?

そう。彼がいたから達成できたようなものですよ。パイブーンは心の部分をバシバシ鍛えてくれたから。もともと才能というか、天性のものはTOMONORIに備わっていましたからね。あれだけのセンスとバランス。日本人にはちょっといないんじゃない?軽量級なのに一発で倒すパワーも持ってるし。あれで大きな体格があったなら、旧K-1で大スターになっていたでしょう。

一時期、TOMONORI選手はK-1の軽量級にも参戦する意欲をみせていましたよね。

ん?いつごろの時代の話ですか?

2008年ですね。村浜武洋選手とやったあたりです。

ああ、そうか。あの頃はK-1でもフェザー級が盛り上がっていたんだよね。でも、TOMONORI自体が53kgとかの選手でしたからね。たしか村浜戦は、63kg契約だったのかな。

その体重差でよくやりましたね(笑)。しかも勝ってます。

本人がやりたいって言うから、やらせましたよ(笑)。勝ったといっても、そろそろ終わりくらいの時期でしたからね、村浜選手は。他のフェザー級の現役トップ選手とでは、ちょっと厳しいかなと本人も感じたんじゃないでしょうか。旧K-1の軽量級人気もそれほど続かなかったですしね。

TOMONORIは負けて強くなる選手だったよ

いまの新生K-1にも軽量級がありますが、昔のK-1人気とは雲泥の差がありますからね。

TOMONORI本人としても、あのようなメジャーな世界で活躍したかったと思います。いかんせん、身体がね。階級がなかったから・・・・。

会長、TOMONORI選手のスランプだった次期ってありましたか?

なんとなくね。いつ頃のことだったかな。最初に日本タイトルに挑戦して失敗したあたりでしょうか。でも、あの時は実力というより、強い気持ちができていなかった印象だね。

日本タイトルに挑戦する以前なんですが、後にNKBフライ級王者となる川津真一選手(町田金子)と2度戦って2度ともKO負けしています。この辺りはいかがでしたか?

ラッタナデェ戦のときのように絶対にリベンジするっていう気持ちが、まだ見えなかったね。川津選手に勢いがあって、呑まれているような感じでした。”強い気持ち”ができていなかった頃ですね。でもTOMONORIの場合は、負けて負けて強くなるっていう部分がありましたから。

あれだけのセンスですから、普通であれば順調に伸びていても良かったのかもしれない。だけど負けることによって、戦う心とか相手に対する気持ちとかが養われたわけだから。試合中に苦しい場面が訪れても、それを越えていく強い気持ちを持てるようになった。それからだと思うんですよね、彼が変わっていったのは。

気持ちの入り方次第で、浮き沈みが激しいタイプともいえるでしょうか。

たしかに。相手を見くびっているわけではないんでしょうが、気持ちがうまく入っていないときは、ポカをやりましたよ。集中力に欠けるというか。まぁ、私の現役時代もそうだったんですがね。ナメてかかったら逆にやられちゃったという(笑)。

▲こちらは2016年にWBCムエタイのインター王座を獲得した際の一枚。手前のトロフィーを渡している方が斎藤会長。TOMONORIは人目もはばからず泣いた。

なぜか許せてしまう。それも彼の魅力だよ

ところでTOMONORI選手には天然ボケといいますか、非常におおらかな部分があるのです。

ああ、たしかに彼にはあるかもね(笑)。

TOMONORI選手の天然ボケにまつわる面白い話、会長ご存知ないですか?

それだったら高津君(ソムチャーイ高津コーチ)とか、近藤君(近藤彰トレーナー)が詳しいから、彼らに聞いてみるといいですよ。

ていうのはね、私自身、選手個々とはある程度距離をおいている部分があるんです。もちろん、ジムのみんなで食事に行くときは一緒に行くんですけれども。

特定の誰かと親しくしちゃうと、他の誰かがイヤな思いをするんじゃないかなって、余計なことを考えちゃうタイプなんですよ。選手全員に平等に接していたいっていうのがあってね。だから、選手個人の私生活のエピソードっていうのは、あまり知らないんです。

とてもよくわかります。

でも、おっしゃりたい事はわかりますよ。天然っていうか、抜けてるところがありますからね、彼には。そこがまた彼の愛される部分でもあるし、ジム生たちも彼を慕ってついていく理由だと思います。

私自身、TOMONORIが言ったことで失敗をしでかしても不思議と許せてしまうんです。たとえば試合の話でも、本来であれば私を通して連絡すべきところを、直接コンタクトしてしまうとかね(笑)。

突き抜けてますね(笑)。

でも悪意がないですから、彼の場合は(笑)。知らないでやったことだし、教えてあげれば分かってくれましたから。愛すべき男なんですよ、TOMONORIは。この人柄でずっといってほしいですね。この手の笑い話は、高津君や近藤君がたくさん知っていますよ。

会長に続いて、高津さんと近藤さんにも取材する予定ですので楽しみにしております。

▲札幌市東区のGRABSで指導するTOMONORI。すでにプロ、ジュニアともに日本チャンピオンを輩出している。しかし自身の試合では、OGUNI GYM所属を貫いている。

感謝で終わる。彼ならそれができますよ

でも私がね、TOMONORIのことで感心しているのは、いまだにOGUNI GYM所属の選手として試合をやってくれているところなんですよ。そこはね、彼スゴイなぁって思ってるところなんです。

そういえば、札幌に拠点を移してからもOGUNI GYM所属のままですね。

彼も札幌で自分のジムをオープンしたわけですから、自分のジム所属でいいわけじゃないですか。それをいまだにOGUNI GYM所属でやってくれている。この気持ちだけで胸が一杯ですね。

引退を迎えるTOMONORI選手に一言贈るとすれば、どんな言葉を贈りますか?

まず、故郷の札幌でそういった場が用意されているというのが幸せなことだと思います。これは札幌に「BOUT」というイベントがあって実現することですから、BOUTの運営者の方には本当に感謝しなければいけない。

私が引退したときもそうだったんですが、後悔というものが一切なくて、感謝の気持ちだけだったんです。要するに自分と戦ってくれた人たち、支援してくれた人たち、応援してくれた人たちに対する感謝の気持ちですね。

そういった気持ちで引退を迎えられたら最高だと思うんです。自分に関わったすべての人に感謝して終われるというのは、とても幸せなこと。彼にはそんな終わり方をしてほしいし、彼ならそれができると信じています。

今回は素晴らしいお話をありがとうございました。ご協力に感謝いたします。

いやいや。こちらこそ、ありがとうございました。

斉藤京二さんのインタビュー前編はこちら>>

【斉藤京二 プロフィール】1955年12月1日、山形県小国町出身。OGUNI GYM会長。1976年、鬼の黒崎道場で有名な目白ジムからデビュー。プロ10戦目にして5大タイトルマッチのビッグマッチに出場、Jライト級現役王者のワンプライに挑戦した。生涯戦績は64戦45勝(28KO)17敗2分。獲得王座は全日本ライト級、MA日本ライト級、太平洋マーシャルアーツライト級。現在はWBCムエタイ日本協会・会長、NJKF名誉顧問としても多忙な日々を送っている。

ジム・道場データ

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山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。