昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORI選手が、現役生活にピリオドを打ちました。
MMA-ZENではTOMONORI選手の輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。ご本人が登場するインタビュー中編は、いよいよOGUNI GYM入門からスターダムにのし上がるまでの貴重なお話を伺っていきます。
日本キックボクシング史にのこるタイトルホルダー・TOMONORI選手の驚きの思考回路とは?超貴重写真を交えて贈る、ファン垂涎のスペシャル・インタビュー中編。
衝撃だったパイブーン氏の指導風景
TOMONORI選手がOGUNI GYMに入門した頃は、すでにパイブーン・コーチがいらした頃ですか?
おられました。最初に見学にいったときに目撃したのがパイブーン先生の指導風景でしたから。
ミットをやっていたんですが、蹴っている側がバッタバタと倒れていくんですよ。「蹴ってる人が、どうして倒れるんだろう?」って不思議に思ったことを憶えています。昔の格闘技道場みたいな雰囲気が残っていましたね。
当時はチャイナロン・コーチもいらした頃ですよね。
そうです。チャイナロン先生も若くてバリバリの頃でした。先生のミドルを喰らって、悶絶する人がいたり。とにかく衝撃的な光景の連続でしたね。僕としてはそういったところに魅力を感じたわけなんですが。
練習好きのTOMONORI選手らしい。
でも、最初の頃はあまり熱心ではなかったんですよ。ロードワークも嫌いだったし、スタミナ練習もあまりしていなかったと思います。タイ人には負けることがあっても、日本人なら楽勝だろうと楽観的に考えていた時期でしたから。ただ、スパーリングだけは好きで欠かさなかった。スパーリングは本当に好きでしたね。
転機となったクマントーン戦
それは意外です。それではその後に”練習の鬼”となるきっかけがあったのですね?
プロ8戦目でクマントーンというタイ人選手とやったんです。タイのTVマッチで、クマントーンも地方のランカーだったから強かった。4Rにダウンを先取したんですが、5Rに肘打ちを喰らって逆転KO負けだったんです。タンカで運ばれたんですよ。
肘でタンカですか?それは酷い。
このとき、「このままじゃ、落ちぶれるな」って心の底から思ったんです。そこからですね、180度転換して厳しい練習を課すようになったのは。おかげで次の試合では、タイ人にKO勝ちできたんです。
同じくタイですね。ラジャダムナンで2RKO勝ち。
はい。初めてだったんですよ、タイ人に勝ったのが。厳しい練習をいていれば、タイ人にもKOで勝てるんだってことがわかって、一層、練習に打ち込みましたね。
ちなみにこの頃の収入源ってアルバイトとかですか?
その頃お付き合いさせていただいてた社長さんの、パーソナル・トレーニングを請け負っていたんです。健康維持とダイエットが目的だったんですが、ボクがメニューを作成してマンツーマンで指導するんです。一回一万円で2~3時間指導する感じですね。
その社長さんが「彼はそのうち有名になるから、今のうちに仲良くなっておけ」と、芸能人と付き合っているようなセレブな社長さんたちを何人か紹介してくれたんです。その社長さんたちからも個人的にレーニングを請け負っていたので、結構な収入になったんですよ。
ライザップに代表される、プライベートなトレーニングをビジネスにしてしまうという発想を、当時から持っていたことが驚きです。
関係者の度肝を抜いた童子丸戦
それでは、スターダムにのし上がるまでの試合についてお聞きしていこうと思います。戦績表を拝見しまして、まず面白いと思ったのが2001年の童子丸選手との一戦。童子丸選手は次代を担うスターとして注目されていた選手ですから、TOMONORI選手は勝てないだろうと思われていたとか。
童子丸選手は本当に強い選手でした。1Rですぐにダウンを取られてしまったし。直後に肘打ちが決まってくれたから、なんとか勝てましたけれど。
僕が面白いと思ったのは、分岐点となったクマントーン戦の前にも童子丸選手との試合が組まれているところなんです。
このときは童子丸選手の体調不良で、僕の不戦勝だったんです。ほんと直前だったんですよ。さあ、リングインだっていうときに「不戦勝だ」と聞いて。もし、このとき戦っていたら僕が負けていたと思います。
そうなっていたら軽量級の歴史が変わっていたかもしれないだけに、神の采配というのは分からないものですね。しかし、意外なところでは2003年のポーラードノイ・トー・センティアンノイ戦。TOMONORI選手ほどの才能のある選手がローキックでKO負けというのも興味深い。
当時のNJKFが招聘するタイ人は強かったんです。“噛ませ”がいませんでしたからね。バリバリの現役ばかりだった。
あと、気になるところでは2004年にWMC(世界ムエタイ評議会)のインター王座を獲得したダミアン・トレイノー戦。この選手って、あのダミアン・トレイノーですか?
そうです。当時は情報がないから彼の凄さというのがわからなかったんですよ。だから逆にガンガン行けたっていうか。知らないほうが逆に良かったんですね。まわりのスタッフも「勝てないと思ってた」と試合後に言ってましたから。彼はいま、トレーナーとしても大成功していますよ。
さきに海外で名前を売ったほうが近道だと思った
では海外の試合に話題を移したいと思います。まず、この海外に打って出るという発想自体が異色ですよね。スポーツライターの布施鋼治さんも「なにを考えていたのか、こっちが聞きたい」と仰っているんですが、僕も同感なんです。
当時、旧K-1が非常に盛り上がっていて、あの華やかな舞台で実力を試してみたかった。あのリングで活躍するにはどうしたらいいのかを考えたら、名前を売るのが一番だって結論になったんです。
それには日本でやってるより、海外で暴れて海外のプロモーターに名前を売ってしまったほうが近道なんじゃないかって思ったのが始まりです。とにかく待っていたらダメ。自分からアクションを起こさないとダメだと思いましたね。
海外といってもルートを持っていなければいけないでしょう?そういったコネクションはどうしたんですか?
その頃、プロレス関係のマッチメイクに関わっている方と面識をもつことができたんです。二人で食事に行ったりするような親しいお付き合いをさせていただくようになった頃、「海外のマッチメイクもできるよ」って言われたのが始まり。その方がジェラルド・ゴルドーと仲が良かったので、オランダでゴルドーが主催するイベントに出場させていただきました。
滞在はどれくらい?
3週間くらい滞在したと思います。ゴルドーのジムに寝泊りしながら練習をしていました。当時はWINDY智美さんもオランダにいらしたんですよ。いろいろとお話を伺いましたね。
オランダでの武者修行
オランダですと、同じような体格の選手は少なかったのでは?
いませんでした。女子選手でも170cm越えが普通。自転車なんてデカくて跨げなかった。「僕の相手いるの?」って聞いたら「いない」と(笑)。だから試合は大きな奴とやるしかなかったんですよ。オランダは2回行きましたけど、どちらも大きな奴でAクラスの選手でしたね。
階級が上でAクラスですか。キツいですね。
それに相手が計量に来ないんですよ(笑)。だから試合当日までどんな奴と戦うのか分からなかったですね。ただ、観客はフェアでした。僕の勝ちだったのにドローにされたときは、一斉にブーイングが起こりましたから。
オランダの次はアメリカ遠征。アメリカとのコネクションはどうやって作ったのですか?
土屋ジョーさん(元全日本バンタム級王者)が、どうしてあんなに多くのタイトルマッチや海外試合をこなしてるのか不思議に思っていたんです。そこで、土屋さんのマッチメイクを担当しているプロモーターを調べて、そのプロモーターに「アメリカで試合をさせてください」と直訴したんです。
UKF世界戦。相手の正体はWBC世界ランカーだった
異色ですね(笑)。ではそれで決まったのが2004年のエリザベス・ルイス戦なんですね?これはUKFの世界タイトル戦でした。
本名はエルベルト・ルイスだったんですけどね。じつはWBCの世界ランカーだったんですよ。あとからボクシングマガジンで調べたらスーパーバンタム級のランキングに入ってましたから。
そんな奴相手によく勝ちましたね。戦績表ではKO勝ちとの記載がありますが、どんな内容だったんですか?
ボクサーだったので蹴りを主体に攻めたら、案外楽に倒せました。ローで1回、パンチで1回、最後はハイキックでダウンしてストップ。日本と違ったのは、お客さんがスタンディングオべーションなんですよ。これが海外の反応なんだなって思いましたね。
ここまでの期間で「俺、強くなったな」って実感することはありましたか?
なかったです。なぜかって?そうですね・・・。とにかく次の試合がしたくてしたくて堪らなかったんですよ。次はこんなことしてみたい。次はこの技を試してみようって、そればかり考えていました。「強くなったな」というよりも、「まだまだ強くなれる」と感じていたんだと思います。
なんの技で勝つんだろう?楽しみで仕方なかった
当時の主武器としては、やはり左フックですか?
いえ。この頃は右のストレートでした。伝統派の空手を学んでいる時から右のストレートが得意だったんですよ。伝統派の踏み込みが入ってるから、キックともボクシングとも違う独特のタイミングだったんだと思います。「これが当たれば絶対に倒れる」っていうのが、プロになる前から自然な感覚としてありましたから。
TOMONORI選手の代名詞といえば左フックという印象もあるんですが、右のストレートだったんですね。
右ストレートを狙いすぎて、逆に当たらなくなってきたんです。そこで新しく開発していったのが左のフックなんですよ。
それでは、2006年~2007年の試合について伺っていきます。この辺りがTOMONORI選手の全盛期と位置づけてもよろしいでしょうか?
そうですね。これは他でもよく言ってるんですけど、試合前の段階で勝利のイメージが頭に浮かぶんですよ。勝利後にリング上でジムのみんなと写真に収まっている光景が明確にイメージできるんです。
「今日の試合、なんの技で勝つか分からないけど、とにかく勝つな」と控え室で話していたくらい。なんの技で勝つんだろうって、それが楽しみで楽しみで仕方なかった。趣味を楽しんでるって感覚に近いですね。それくらい波に乗っていた時期でした。
フィジカル・トレーニング導入の先駆者
この頃の活躍を語るうえで欠かせないのが、TOMONORI選手が導入したフィジカルトレーニング。導入のきっかけはどのようなものだったのですか?
時期的に言えば2000年くらいですかね。クマントーンに負けて一念発起したときに、なんでタイ人に勝てないのかなって考えてみたんです。考えたのは、向こうは幼少の頃からムエタイ漬けで、僕らは高校生や社会人から始めている。同じことをしていても、その差は縮まらない。だからフィジカルトレーニングという全く新しい視点から攻めてみようと思ったんです。フィジカルを底上げすれば、別角度からタイ人の実力に近づけると思ったんですね。
しかし、2000年当時ですと「フィジカルトレーニング」という言葉自体、認知されていませんでした。当然、フィジカルトレーニングに励む格闘家なんていうのもいなかった。どこで出会ったのです?
当時はまだ少なかったんですが、フィジカルトレーニング専門のジムというのがあったんです。だいたいグループレッスンというか、テニスとかバスケとか他競技の選手と一緒になって行うケースが多かったですね。
経験した事のない動きをするので、「あ、自分はこういった動きが苦手なんだ」というのが学びとしてあって。メチャクチャ勉強になった時期ですね。「ここを鍛えればこの動きでパワーが生かせる」というのを自分なりにキックボクシングに繋げてアレンジしていきました。
当時ですとまったく理解されない時期もあったのでは?
そうですね。僕は試合前のアップでも、当時からフィジカルトレーニングの概念を取り入れたものを行っていました。テニスボールを使ったりしていたから、周りの人は「こいつ、なにやってんだ?」という目で見ていましたね。
超党派トーナメントで実力日本一を証明
TOMONORI選手の全盛期で印象的な出来事といえば、まずはフライ級日本一を決定した「MACH GO GO 52kgトーナメント」があります。
各団体のトップ選手が一堂に会するトーナメントというのは、当時としては画期的な出来事でした。参戦が決まったときの心境はどのようなものでしたか?
個人的には同時期に開催された真王杯トーナメントに興味があったんです。MACH GO GOは賞金が100万円で、真王杯は200万円でしたから。それに会場の盛り上がりも、真王杯のほうが団体間のバチバチ感が凄くて盛り上がっていた。ただ、階級が合わなかったから仕方ないですね。
では、MACH GO GO優勝は、あまり嬉しい出来事ではなかった?
いやいや、そんなことはないんですよ。僕はMAキックのチャンピオンだった森田晃允選手に興味があったんです。噛み合う選手だなと思っていたので、ぜひ対戦したいと燃えていた。森田選手が初戦で敗退してしまったのは残念でしたけどね。
伝説的名勝負・ラッタナデェ戦
そしてフライ級日本一の称号を手にした勢いで挑んだ「試練のムエタイ3連戦」。中でも一戦目のラッタナデェ・KTジムとのリターンマッチは、ファンの間でも伝説的な試合として語り継がれています。
ラッタナデェは僕より先にJ-NETの王者・魂叶獅選手を下しているんですよ。その試合を僕は実況席から間近で見ていたんです。その時から「この選手と戦ってみたい!」と熱望していたんですね。
初戦は左フックで1ラウンドKO負け。4ヵ月後のリマッチでは逆に左フックで1ラウンドKO勝ち。ドラマチックなリベンジで、TOMONORI選手のベストバウトの呼び声が高い試合となりました。
とにかく、初戦でのKO負けが悔しくて仕方なかった。試合後すぐに再戦を直訴して、絶対にリベンジしてやろうと決めていたんです。リベンジした瞬間、観客の声援が地響きのようにリングになだれ込んできたのを憶えていますね。あと、余談なんですがラッタナデェとの第一戦で勝っていたら、MMAに転向するシナリオがあったんですよ。
MMAに転向?それは完全にキックボクシングを卒業してということですか?
はい。某団体の上層部の方とも打ち合わせが進んでいて、「プロテストは免除で、すぐに使います」みたいな話まで出ていましたから、かなり具体的なシナリオではあったんですよ。
驚きの新事実ですね。もしそうなっていたら、日本MMA史も変わっていたかもしれない。ソムチャーイ高津さんがインタビューで語っていたように「夢の対決」ということも十分にあり得たわけですから。
でも負けちゃいましたから。フックの差し合いだったんですけどね。同時にフックを繰り出して、紙一重で向こうのフックが先に当たったんです。これがもう悔しくて悔しくて。
「こいつにリベンジするまでは終われないな」と思って、再度ムエタイ熱が熱くなったんです。だから、一戦目で勝っていたらMMAに転向していた可能性は高いんですよ。
【TOMONORI プロフィール】1977年、札幌市出身。本名・佐藤友則。WMCインターコンチネンタルフライ級王座、UKF世界バンタム級王座、WBCムエタイ・インターナショナルフライ級王座等々、獲得タイトルは多数。本場ラジャダムナン、タイ国王生誕記念試合等でKO勝ちを収めているところも、日本人選手としては特筆もの。2018年10月28日引退。現在は札幌市東区に自身のジム「grabs」をオープンし、後進の育成に力を注いでいる。生涯戦績は59戦38勝19敗2分け。OGUNI GYM所属
ジム・道場データ
- ジム名称:GRABS KICKBOXING STUDIO
- 所在地:札幌市東区北14条東10丁目4-16-1F
- TEL:011-731-3232
- WEBサイト:https://www.grabs-kick.jp/
山田 タカユキ
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