TOMONORI引退記念インタビュー第2弾 / 近藤 彰さん 前編

TOMONORIが札幌に拠点を移してからも、ここ一番という重要な試合には必ずセコンドとして帯同している一人の男性。名門OGUNI GYMのチーフトレーナー・近藤彰氏だ。

MMA-ZENでは、昨年10月に引退したキックボクシング8冠王・TOMONORIの輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。今回はこの近藤彰氏にご登場いただき、貴重なお話を伺った。

OGUNI GYM会長・斉藤京二氏をして「彼がいなかったら、OGUNI GYMの躍進はなかった」と言わしめる名参謀は、稀代のタイトルホルダーにどのような思いを抱いていたのだろうか。

▲札幌で行われた引退試合にも、東京から駆けつけた近藤氏。TOMONORI選手の全盛期はもちろん、札幌に拠点を移してからも、ここ一番という試合には必ずセコンドとして帯同し支え続けた。

もしかしたら、カステラが効いたのかも知れない

近藤さんはTOMONORI選手の全盛期はもちろんなんですが、札幌に拠点を移してからも、ここ一番という試合には必ず東京から駆けつけていますよね。

やっぱり、TOMONORI君だからでしょうね。彼の愛すべき人柄っていうのかな。必要とされれば札幌でもどこでも駆けつけて、協力したいと思わせてくれますよね。

TOMONORI選手も「近藤さんがいてくれると落ち着くんだ」と語っていました。

まあ、実際は僕がいたからといって、どうこうなるものでもないんですけどね。ただ、彼には試合前の儀式というか決まったルーチンが色々あって、試合前にカステラを一切れ食べるというのも隠れたルーチンの一つなんです。だから僕は何も言われなくても、試合前にはカステラを用意していたりする。もしかしたら、そういったところが気に入ってもらえてるのかも知れない(笑)。

昨年10月に引退試合を終えたTOMONORI選手ですが、やはり試合前の調整ではOGUNI GYMで行ったのでしょうか?

試合の2週間ほど前でしょうか、ふらっと現れましたよ。一般会員さんにも自分から「久しぶりです!」なんて言ってね。ジム生も「あっ、TOMONORIさんが来てる!」って喜んじゃって。彼が現れるとジムの雰囲気がパッと華やぐでしょう?そういったスター性は天性のものでしょうね。

▲リング上で勝利者トロフィーを手にする現役時代の近藤氏。後にいる方は、若き日の斉藤京二・OGUNI GYM会長。当時は斉藤会長も現役で活躍していたため、ジム内では「斉藤先輩」と呼んでいたという(写真提供:OGUNI GYM)

「落ち武者」というリングネームもあったね(笑)

わかります。私も札幌でTOMONORI選手が経営するジム・GRABSにお邪魔することがありますが、ジムの雰囲気が明るいですから。

そうでしょう。GRABSのトレーナーは、僕が勤めている会社にいた後輩だったんですよ。彼はTOMONORI君が札幌でジムを立ち上げると聞いて、会社を辞めて付いていっちゃいましたからね(笑)。TOMONORI君の人間性が為せる業でしょうね。

GRABSではスタッフや選手をニックネームで呼ぶのが特徴なんです。ご存知でしたか?

命名はTOMONORI君でしょう(笑)。東京でもTOMONORI君が名付け親の選手がたくさんいます。WBCムエタイのチャンピオンになったMOMOTAROもそうだし、鰤鰤左衛門(ぶりぶりざえもん)とかね。鰤鰤左衛門なんて、最初のリングネームが「落ち武者」ですからね(笑)。TOMONORI君がCOREというジムの代表をやっていたときは「水野晴郎」というのもいましたよ。

じゃ、GRABSの「がんばれ!ふるかわくん」はソフトなほうじゃないですか(笑)。

でもTOMONORI君が命名した名前は不思議と馴染むんです。MOMOTAROも本名は小寺耕平というんですが、みんな「MOMO」としか呼びませんからね。鰤鰤左衛門の場合ですと「ぶりぶり」ですよ。本人達もTOMONORI君につけてもらった名前を気に入ってるみたいだし。

▲取材当日は元WBCムエタイ王者のMOMOTARO選手のミットを持っていた近藤氏。伝統空手がベースとなっているMOMOTARO選手の動きにも柔軟にミットを合わせる。

受け継がれるTOMONORIの遺伝子

先ほどMOMOTARO選手とも少しお話ししたんですが、いま使ってるロッカーはTOMONORI選手から譲り受けたものだと誇らしげに語っていました。

彼もTOMONORIクラス出身の選手なんです。技術的なこととか試合に関することとか、TOMONORI君の影響を強く受けて育った選手です。MONOTAROの前の看板選手で、同じくWBCムエタイの王者だった中須賀芳徳もそうですね。通常のジムワークは僕が見ることが多かったけど、試合に関する対策とかはTOMONORI君の教えが大きかったと思います。

それにTOMONORI君の場合、自分が苦労してきてるでしょう。天才肌というイメージが先行しているかもしれませんが、じつは負けて悩んで、そのたびに技術や練習方法を改良しながら強くなってきた選手なんです。だから、彼の指導には説得力がある。

長嶋茂雄さんじゃないですけど、天才の指導というのは超越しすぎていて、凡才には理解できない部分がありますからね。

そうです。だけどTOMONORI君の場合は自分で悩んで答えを出してきた選手だから、「初心者にはこういった説明の仕方をすれば理解してもらえる」というのが分かっているんですね。プロ選手にしても、どの段階で壁にぶち当たっているのかが分かるんですよ。そういった「生きたお手本」が目の前にいるっていうことは、ジム生にとっては非常にプラスになると思いますね。

▲MOMOTARO選手が使うロッカーは、TOMONORI選手から譲り受けたもの。いまでもロッカーをあけるとTOMONORI選手の写真が飾ってある。

彼のボディブローだけは嫌だったね

TOMONORI選手がOGUNI GYMに入門した当時は、近藤さんも現役選手として活躍されていた時期ですよね。はじめてスパーで手合わせしたときの印象って憶えておられますか?

当時は僕も選手としてはもうダメっていうか、すでにトレーナーとしての活動が多くなっていましたからね。TOMONORI君とマスをするときなんかも、僕のほうが全身にプロテクターをつけて思い切り打たせてあげる、みたいなマスやミットが多かったんですよ。

そんな中で印象に残っているといえば、TOMONORI君のボディ・ブロー。僕の場合、ボディプロテクターをつけていれば体重100kgの人に思い切り叩かせても問題ないのですが、TOMONORI君のボディ・ブローだけは辛かった。彼は軽量級ですけど、とにかくスピードがあるでしょう?重たいボディ・ブローなら大丈夫だけど、彼のは痛いボディ・ブロー、突き抜けるボディ・ブローだった。

TOMONORI選手は近藤さんが行う、シチュエーション別に組み立てられているミット方法にも必要性を感じていたようです。このミットの練習方法はいつどこで作られたものなんですか?

もともと僕が自分でやりたいなと思ってやっていた練習方法なんですよ。当時はパイブーン先生や高津先輩のようにスタミナ重視でガンガン蹴らせるミットが主体だったんです。僕はそれとは別に相手がこう来た場合はこう返す、みたいにシチュエーションだけを抜き出したミット練習をやっていたんですね。

そして、たまたまTOMONORI君のミットを持つことになったときに、彼から「こんな感じでやれませんかね?」みたいなリクエストが出たんです。それが僕のやっていた方法と同じだったんで、いくつかの方法を提案してみたらとても気に入ってくれて。

それからですかね、基本的に夜間に練習していたTOMONORI君が、僕の指導している昼間のクラスに顔を出すようになったり、二人で時間をあわせて特別練習をやったりし始めたのは。

▲腹部と胸部の2箇所にプロテクターを装着するのが近藤流のミット術だ。TOMONORI選手も早くから近藤流ミットの重要性に気づいていたという。

TOMONORIが這い上がってこれた要因とは?

ちょっとTOMONORI選手の戦績表を見ていただけますか。

ああ、懐かしいですね。うんうん・・・・。懐かしい試合がいっぱいあります。

今日は近藤さんの思い出深い試合と、それにまつわるエピソードをお聞かせ願いたいのです。童子丸選手とやったときなんてセコンドについておられましたか?

いや、このときは僕も選手でしたから、一人のジム仲間として観戦していましたね。童子丸戦はたしか高津先輩(ソムチャーイ高津コーチ)なんかがセコンドについていたんじゃないかな。僕がセコンドについたのは、もっと後のほうでしょうね。

いまでこそ8本ものベルトを獲得しているTOMONORI選手ですが、けっしてエリートのような戦歴をもった選手ではありませんよね。スターダムにのし上がる前のルーキー時代に沢山の黒星を喫しています。

たしかに負けてはいますね。

しかも、並みの選手ならここで引退してもおかしくないレベルの辛い敗北もあります。その都度、なぜ這い上がってこれたのか不思議に思っていたんです。近くで彼を見ていた近藤さんは、どう分析されますか?

▲念願だった故郷・札幌での戴冠を果たしたISKA世界タイトル戦。東京から駆けつけセコンドについた近藤氏(左)

TOMONORI君には明確なビジョンがあった

彼の場合、KO負けしても実にあっけらかんとしているんです。過去の失敗を全然ひきずらない。もちろん、人の見ていないところでは落ち込んでいたのかもしれませんが、そんな姿は見たことがない。

個人的に僕が感じているのは、彼には明確なビジョンがあったのではないかと思うんです。将来、この世界で身を立てるという明確なビジョンが当時からあったんじゃないかと。

あ、それ当たってますね。2013年に掲載したインタビュー記事で、TOMONORI選手は「19歳で上京したときには、すでに札幌でジムをオープンするビジョンがあった」と語っていますから。

明確なビジョンがあるから、常に前だけをみて突っ走っていれたのでしょうね。もう一つは彼の性格。目先のことに拘らないじゃないですか。いい意味でのアバウトさというか、タイ人的なアバウトさがありますよね。

タイ人的なアバウトさ?

ええ。タイ人って勝ち負けにこだわらない選手が多いでしょう?自分の戦績もろくに覚えていないみたいな。TOMONORI君がタイで試合をしたときも、背格好が似てるというだけで「じゃ、おまえとおまえ」みたいな感じで試合が組まれることがあったんです。そんなときもTOMONORI君は全然オッケーみたいな感じで、細かいことは気にしない(笑)。

▲同じく故郷での戴冠を果たしたISKA世界戦。試合後の控え室での一コマ。バンテージをはずす近藤氏も嬉しそうだった。

本質を見抜く眼。認めてくれて嬉しかった

MACH GOGOトーナメントで優勝したときも、「TOMONORI君を倒したい」って挑発する選手が出てきたんです。だけど彼はまったく気にしなかった。大きな目標だけを見据えて突き進む。そんな強さみたいなものがありました。

外の雑音というか、他人の意見に惑わされないと。

そうです。先ほど僕が自分でやっていたミット練習を気に入ってくれた話をしたじゃないですか。僕が逆の立場だったら、試合数も少なくてランカーにもなったことがない先輩の言うことなんて聞きませんよ。だけどTOMONORI君は相手が誰であろうと、良いものは良いと言える人でした。本質的なものを見抜くというのかな。そういった確かな眼をもっていましたね。

それは興味深いお話です。

なかなかできないでしょう、そういった振る舞いは。逆にこっちが学ばされるっていうかね。そして僕が提案した練習方法で成果がでれば、「ありがとうございました」って言ってくれたし。僕としてはすごく嬉しかったですよ。

近藤彰さんインタビュー後編につづく>>

【近藤彰(こんどうあきら):プロフィール】1970年、東京都出身。OGUNI GYMではソムチャーイ高津氏につぐ古参の功労者。現役時代はライト級で活躍し、後の名王者・林 亜欧(SVG)とも拳を交えている。生涯戦績は7戦2勝5敗(2KO)。トレーナー転身後はTOMONORI、米田貴志、中須賀芳徳、大槻直輝などの黄金世代を支え、OGUNI GYMの躍進に貢献した。

ジム・道場データ

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山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。