昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORI選手が、現役生活にピリオドを打ちました。
MMA-ZENではTOMONORI選手の輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。トップバッターには、札幌出身のスポーツライター・布施鋼治さんにご登場いただきました。
東京オリンピックを控えて、アマチュア・レスリングの取材で海外を飛び回っていた布施さん。貴重なお時間を割いていただき感謝申し上げます。それではTOMONORI引退記念インタビュー第1弾、お楽しみください!
注目せざるを得なかった童子丸戦
お忙しいなか、お時間を割いていただき恐縮です。
いやいや、ちょうど札幌で済ませる用事がありましたからね。大丈夫ですよ。
今日は布施さんが選ぶTOMONORI選手のベストバウトというテーマでお伺いしたいと思います。まず、こちらの戦績表をご覧ください。最初にTOMONORI選手に注目しはじめたのは、どの時期だったか憶えておられますか?
僕がTOMONORIに注目するきっかけとなった試合は、2001年の川津真一選手(町田金子ジム)との試合ですね。たしか2回戦って2回とも負けてるんじゃなかったかな。いい試合をやって負けたんですよ。絶対に逃げない姿勢がよかった。
TOMONORI選手のルーキー時代というか、5回戦に昇格してすぐの頃ですよね。対する川津真一選手はこの後、フライ級チャンピオンになって年間最優秀選手にも選ばれていますから、TOMONORI戦のときは上り調子で勢いがありました。
それにNJKFも創立から3~4年の黎明期で、いまと違ってランキング戦のレベルが非常に高かった。ファイトスタイルの相性からいっても川津選手に分がありましたからね。パンフレットを見たらTOMONORIのプロフィールに「札幌出身」と書いてあるじゃない?なんとか頑張ってほしいなと応援していたんです。それから、同じく2001年の押川童子丸(キングジム)戦も印象深いですね。
押川選手は未来のキックボクシング界を担う逸材と見られていたんですよね。後にルンピニーで2階級制したダーオプラスックにも勝っています。
そう。僕もね「これは凄い選手だ!」って注目していた選手なんですよ。その押川選手にTOMONORIは勝っちゃった。僕としてはTOMONORIという選手に注目せざるを得なかったんです。
海外路線のパイオニアとして
現在、布施さんとTOMONORI選手は、同郷ということもあって仲がいいことで知られています。親交が始まったきっかけは何だったのでしょう?
当時、格通(雑誌・格闘技通信)のインタビューで初めて1ページまるごとスペースを頂けたんです。そのインタビューがTOMONORIのインタビューだったんですよ。たしか高島平のアスレチック・クラブで取材したはずですね。僕が訪ねると、「やっと来てくれましたか!」と言ったことを憶えています(笑)。
取材に飢えていたんですね(笑)。
そう。とにかく目立ちたいって奴だったの、TOMONORIは(笑)。
それを物語るようにTOMONORI選手のデビュー戦は、なんとタイのラジャダムナン・スタジアム。異色ですよね。
「俺、ラジャのリングに上がってんじゃん!」と感激したそうですよ。「嬉しくて楽しくてしょうがなかった」と後で語っていますから。
しかし20歳でデビューして、初めて日本タイトルを獲ったのが28歳と遅咲きです。しかも日本タイトルを獲る以前に、アメリカでUKFの世界タイトルを獲っています。この経歴も異色ですね。
そういった海外のタイトルを狙うというのは、TOMONORIがパイオニアですよ。変な奴がいるということで取材を受けているはずですから。
変な奴?
そう。アメリカでUKFのタイトルを獲ったり、オランダで10kgくらい重い選手からダウンを取ったりして暴れてる変な奴がいるって。たしか「紙のプロレス」がTOMONORIの取材をしてるはずですよ。
ほうっ。それは初耳です。
TOMONORIはスターダムにのし上がる前のぺェペェの時代に、すでにそういった行動をとっていたんです。当時は所属している団体の全日本タイトルを狙うのが大前提でしたから、TOMONORIの行動は異色というか画期的でしたね。おそらく団体の外にあるものに挑戦することによって、自分の価値や存在感を高めたかったんだと思います。それでしっちゃかめっちゃか暴れていたんでしょう。
そういった団体の外で存在感を示していく手法は、団体側が発案してリードしていったものなんですか?
いや、TOMONORIのセルフプロデュースです。団体に所属しながらも、団体の外で活動し存在感を高めていく手法はTOMONORIが先駆者なんですよ。彼の場合、デビュー戦がタイだったりしてるから、最初から視野が広かったんじゃないですか。だって普通にやってたらこんなこと考えないもの。「おまえ、なにを考えてたの?」とこっちが聞きたいくらい(笑)。
欧米のタイトルを狙う路線に対して、ムエタイ志向が強い方々からのバッシングはなかったのでしょうか?
無かったと思いますね。というのも、TOMONORIはNJKFで実績を作ったうえで海外にも挑戦していたわけですから。NJKFで負けが込んできて仕方なく国外に照準を変えた、というわけではないんです。だからみんな目をつぶっていたというか、「どこまで行けるのかな?」という興味本位で見ていた人が多かったんじゃないですか。
ただ当時は、全日本キックともMAキックとも交流がなかったわけですからね。選択肢としては自分の所属団体でやるか、海外に出るかの2つしかなかったわけです。海外に出ようなんて誰も考えないから、実質は”所属団体のランキング戦が絶対”という価値観しかなかった。そのなかで海外に飛び出したというのは、彼の行動力がなければ出来なかったでしょう。
特にルーキーの場合だったら、日本にいても後楽園ホールに年2回出場できればいいほうでしょう?TOMONORIが海外に目を向けたのは正解だったと僕は思います。彼の”目立とう精神”が保守的な殻を破ったといえますね。
僕が選ぶベストバウトはこの試合
布施さんが選ぶTOMONORI選手のベストバウトはどの試合ですか?
あれはディファだったかな。タイ人とやった試合・・・。
ディファでタイ人というと、2007年のナッタナデェ・KTジムとの2戦目ですね。1戦目は後楽園ホールで1ラウンドKO負けしています。
相手がバリバリの現役ランカーでね。小さい選手だったんだけど、とても勝てないと思ったんです。「どうして再戦なんて組んだんだろう?」と不思議に思っていたくらいだから。でも勝ってしまったでしょう。「スゲェな」と思いましたね。
ナッタナデェ選手は当時、ミニフライ級でラジャ&ルンピニーの両方で1位でした。ムエタイの軽量級は「神の階級」と呼ばれる難攻不落の階級ですから、「無謀な再戦」と思っていたファンも多かったかも知れません。
あとはね、その前後でフライ級のトーナメントがあったんですよ。
2006年に開催された「MACH GOGOフライ級日本最強決定トーナメント」ですね。
このトーナメントで優勝したことで、初めて「TOMONORIって強いじゃん」という評判が全国に広まったんです。
ということはトーナメントの開催が発表された時点では、TOMONORI選手の他に本命とみられていた選手がいたんですか?
いや、各団体のトップ選手が一堂に集うトーナメントなんてこのときが初めてだったんで、基準となる物差しがなかったんです。「誰が優勝するんだろう」というワクワク感があるだけで、実際は誰が優勝するかなんて全く予測がつかなかった。実際にやってみて優勝したのがTOMONORIだったから、本当の実力日本一はTOMONORIなんだってことに皆が初めて気がついたんですね。
不勉強でお恥ずかしいのですが、このときのトーナメントって本当に強い選手がエントリーしていたんですか?本命がエントリーしていなくても「最強トーナメント」と謳ってるところもありますよね?
強い選手は全部エントリーしていましたね。これはJ-NETさんだから許されたんでしょうけど。飛燕選手(MAフライ級1位)も出ていたし、松尾選手(J-NETフライ級2位)も出ていましたよね。あとは・・・そうそう魂叶獅選手(J-NETフライ級王者)もね。だからね、単純に嬉しかったんです。札幌出身の選手が価値あるタイトルを獲ってくれて。
というわけで僕のベストバウトはナッタナデェ戦。印象に残る出来事としてはMACH GOGOトーナメントといったところですね。
わかりました。本日は貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
【布施鋼治:プロフィール】スポーツライター。1963年、札幌市出身。アマチュアレスリング、ムエタイ、MMAへの造詣が深く、雑誌「Sports Graphic Number」の連載、新聞への寄稿など幅広く執筆。「吉田沙保里119連勝の方程式」でミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。他の著書に「東京12チャンネル運動部の情熱」「なぜ日本の女子レスリングは強くなったのか 吉田沙保里と伊調馨」等々、多数。
布施鋼治さんの本
山田 タカユキ
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