TOMONORI引退記念インタビュー第6弾 / OGUNI GYM会長・斉藤京二さん 前編

昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORIが、現役生活にピリオドを打った。

MMA-ZENではTOMONORIの輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。第6回はTOMONORIの恩師でもあるOGUNI GYM会長の斉藤京二氏にご登場いただいた。

80年代を代表する名キックボクサー・斉藤京二氏は、愛弟子のこれまでの歩みをどう見ていたのか?加えて会長ご自身が語る現役時代の秘話とは?ファン垂涎のスペシャル・インタビュー。

▲2016年、TOMONORIがWBCムエタイ・インターナショナル王座を獲得した際の斉藤会長(右)。斉藤会長からメダルを授与されたTOMONORIは男泣き。会長も嬉しそうだった。

中学生時代のヒーロー、斉藤京二氏

本日はお忙しい中、お時間をいただき本当にありがとうございます。

いやいや、こちらこそTOMONORIのためにわざわざね。どうもありがとう。

さっそく始めさせていただきますが、読者の中には会長がどのような選手だったのか知らない世代も多いのです。ですので、最初に会長の現役時代について少々触れてみたいのですがよろしいでしょうか?

どうぞどうぞ。なんでも聞いてください。

私は中学生時代に格闘技を始めたのですが、当時、夢中になって読んでいた、月刊フルコンタクトKARATEに斉藤会長が特集されていたんです。たしか吉福さんという大学教授が破壊力を測定するといった企画だったのですが、憶えておられますか?

ああ、はいはい。測定装置を叩くやつでしょう?

そうです。当時はそういった企画が流行ってましたから、私などは夢中で読み耽りました。

懐かしいねぇ・・・。今、ニュージャパン(NJKF)の特別相談役をやっている向山鉄也と一緒にいきましたよ。たしか名古屋の大学じゃなかったかな。あとバンタム級の三島真一もね。

その斉藤会長に、今度は私がインタビューさせていただく事になるとは、不思議なご縁を感じております。

▲ハードパンチでKOの山を築いた斉藤会長。あまりの破壊力に破壊力測定の企画が組まれるほどだった。月刊フルコンタクトKARATE 1987年10月号©福昌堂

沢村忠を見てキックの世界へ

そもそも、会長がキックボクシングを始めたきっかけは何だったのでしょうか?

若い方はわからないかも知れないけど、昔、沢村忠さんという名キックボクサーがいてね。それはもう大変な人気で、毎週テレビで彼の試合をやっていたわけです。

キックに魅力を感じたのは、全身を武器として使う格闘技だったこと。プロレスもあったけど、プロレスとはまた違ってね。スピード感もあるし、身体が小さくてもできるでしょう。もう、いっぺんに虜になっちゃったのね。

ちょうど沢村さんが同じくらいの階級だったから、沢村さんと戦って勝つことを目標としてキックボクシングを始めたわけです。仙台の企業に就職して2年くらい経った頃かな。

当時、仙台にもジムがあったのでしょうか?

あるにはあったけど、どうせやるなら東京でやりたいと思って、会社にお願いして東京に転勤させていただいたんです。ちょうど二十歳の頃でしたね。

そこで入門したのが、目白ジムだったわけですね。

そうです。でも、一年くらいで新格闘術・黒崎道場という形で独立したんですけどね。それからですよ、梶原一騎さんが企画した「四角いジャングル」とか、アントニオ猪木vsウィリー・ウィリアムス戦が出てきたのは。

猪木vsウィリー戦では、前座で出場

猪木vsウィリー、懐かしいです。あの興行には会長も出場されてますよね?

そうです。たしか蔵前国技館でやったんだよね。私が全日本ランキングに入ったあたりかな・・・。そうそう、ライト級のタイトルに挑戦するかどうかって時期でしたね。

斉藤会長といえば、当時の日本ライト級戦線を総ナメにした名王者でした。その会長のベストバウトは1987年のリシャール・シーラ戦というのが一般的ですが、ネット上には長浜勇(MA初代ライト級王者)戦がベストバウトだという記述もあります。会長ご自身としては、どちらの試合に思い入れがありますか?

う~ん・・・。まぁ、重さでいえばシーラ戦かな。でもね、長浜選手との試合も思い出深い試合だったんですよ。なぜかっていうとね、当時、アメリカの選手でベニー・ユキーデという有名な選手がいたんです。長浜選手との試合は、このベニー・ユキーデへの挑戦権がかかった試合だったんですよ。

斉藤京二vsベニー・ユキーデ、まさに黄金カードですね。しかし、リシャール・シーラ選手もベニーと同じくWKA(世界キックボクシング協会)の世界王者。加えて国技サバットでは3度、世界王者に輝いています。

そう、彼はフランスの英雄だった。シーラ選手との試合は、WKAと日本のチャンピオンクラスの選手が4対4で激突した対抗戦のなかの一つでしたね(1987年9月5日、全日本キックボクシング連盟「スーパーファイト2」)。

▲伝説の一戦、斉藤京二vsリシャール・シーラ。WKAと全日本キックの威信をかけた対抗戦。セミファイナルまで日本勢が全員ノックアウト負けという結果の中、メインイベントの斉藤会長が逆転KOで勝利し、全日本キックの面目を保った。場内は興奮の坩堝と化したという。

日本勢全敗。最後の砦として

対抗戦は会長がメインで、それまでの3試合がすべて日本勢のKO敗だったんですよね。やはり、最後の砦としてプレッシャーがありましたか?

あったあった。とにかく、私の試合まで日本勢が全滅だったから、なんとか食い止めなきゃと思ってね。でも、最初にダウンを奪われちゃったでしょう?周りも「こりゃ、斉藤もダメだな」って思ったらしいけどね(笑)。あの頃のオランダ、フランス系の選手は確かに強かったですよ。

会長の試合まで日本勢がKO敗で全滅。控え室の空気というのはどのようなものでしたか?

周りのことはあまり憶えていないかな。私は自分の試合だけに集中するタイプだったし、控え室に入っちゃうとピリピリするというか、周りの人が近寄りがたい雰囲気を放っていたと思います。応援に来た人たちも、私にだけは近寄ってこなかったもの。

いまの若い人たちはそうピリピリしなくても結果を出せる人が多いけど、私の場合は不器用だったから、試合前はいつもそう。だから、控え室の空気というのは憶えていないですね。

シーラ選手は頭のいい選手だったよ

4R、シーラ選手は先にダウンを奪ったにもかかわらず、前に出てきませんでした。ハードパンチャーの会長としては距離が詰まったほうが好都合なわけですから、やりづらかったのではありませんか?

うん。その辺は彼も警戒してましたよ。私もダウンは奪われたものの、足にはきてなかった。そこは彼にも分かっていたんでしょうね。ヘタに距離を詰めて一発もらっちゃマズイなと・・・。

たしかに私はストレート系じゃなくてフック系の選手でしたから、距離が詰まって一発当てればなんとかなるっていう気持ちはあったんです。でも、彼は近づいてこなかった。頭のいい奴だなと思いましたね。

結果は6Rに逆転KO勝ちを収めます。

最初はシーラ選手のスピードが速くて、捕まえることができなかったんだけどね。なんとか起死回生の一発が入ってくれたから。先にダウンを奪われてからの逆転だったから、会場がもの凄く沸いていたことを憶えていますよ。

当時の興行は外国人同士の試合がメインで扱われて、日本人同士の試合はタイトルマッチ級のカードであっても、ぞんざいな扱いでした。それだけに会長の勝利によって、ナショナリズムをかき立てられたファンは多かったと思います。

▲海外のリングでも幾多の名勝負を繰り広げた斉藤会長。上の画像はオランダのキック史に残る名王者・トミー・フォンデペーとの死闘。月刊リアルファイティン 1992年1月号©スポーツライフ社

ジプシーファイターとして

ところで会長、会長が現役を引退されてOGUNI GYMの新会長に就任された時に、「リアルファイティン」という格闘技雑誌でインタビューをうけておられるのです。憶えていらっしゃいますか?

ああ、リアルファイティンさんね。憶えてますよ。

そのインタビューで会長は「決まったトレーナーやコーチについて練習した期間が少なかった」と語っておられますが、これは本当なんですか?

うん。それはね、入門したジムがそんなジムだったんですよ。要するに先輩の動きを見て技術を盗むというのかな。「実際に倒されながら、身体で覚えていけ」みたいなジムでしたからね。倒されても倒されても、「いつか見返してやる」くらいの意気込みでやっていた。

後に私も独立するんですが、常設のジムなんて持てる状況じゃなかったんです。だから、角海老(ボクシングジム)さんのジムで、時間と場所が空いてるときにサッと使わせてもらうとか、あとは小岩にあったジムにお金を払って、一緒に練習させてもらったり。

あとは大学のボクシング部に知人がいたので、皆さんの練習が終わった後に使わせてもらったりね。近くの公園や自宅マンションの地下駐車場でもやった。夜に仕事が終わるときは、そのまま誰もいない社屋で練習したりして。とにかく練習場所を探すので精一杯。1~2年はジプシーのような形態でしたね。

”一発”を当てることに全てを賭けた

では、サンドバックがない場合もあるでしょうから、ミット練習中心というか・・・。

そうそう。何人か集まってお互いにミットを持ち合って。ですから私の場合は最後まで、選手を引退するその日までコーチというコーチはいなかった。というか、雇うことができなかったんです。

昔はインターネットなんてありませんから、相手選手の情報は入ってこない。加えてトレーナーもいない。そういった環境で、どういった点に重点をおいて練習されたのでしょうか?

当時の私はね、イケイケだったと思うんです。相手がこう動いたらこっちはこう動く、みたいなことは考えてなかったから。とにかく一発当てれば倒せるっていうのがありましたから、その一発を磨くことに重点を置いていましたね。

もともと、デビューして6戦か7戦くらいまではパンチ一発で倒してて、そのままランキングに入っちゃったんです。山村の出身ですから土台というか、基礎体力は人並み以上だったんでしょう。でも、その上のランカー相手になるとこっちの動きを研究されて動きを読まれちゃう。

一発当てて完全に倒せればいいけど、動きを読まれると上手くいなされて終わっちゃうパターンも出てきた。だから、一発を当てるための技術・作戦というものは必死で考えたし、重点をおきましたね。

▲1990年のラウンドガール・コンテストにゲスト出演した、ライト級チャンピオン時代の斉藤会長。隣に座っているのはフェザー級チャンピオンの清水隆広氏。月刊リアルファイティン 1990年9月号©スポーツライフ社

自分がやりたかったことを選手たちに

先ほどのリアルファイティンでのインタビューに戻りますが、その中で会長は「ムエタイの選手にミットを持ってもらって、新しいジムを作っていきたい」と語っておられます。当時はまだタイからトレーナーを招聘するというのは、一般的ではありませんでしたし、従来の日本キックのスタイルとは異質のものを導入するということに関しては、抵抗はなかったのでしょうか?

私自身は先ほどもお話ししたようにコーチという存在がいなかった。それはそれで、なんの悔いも無く引退したんですが、これからの選手には本当の意味での技術というものを身につけてほしかったんです。だから抵抗というものは全くなくて、逆に自分が経験できなかったことを選手たちには経験してほしかったんですね。

自分達が頑張ってるうえに技術が加われば、もっと強くなれるわけでしょう。そこで、私の友人が親しくしていたタイのジムから、チャイナロンというトレーナーを紹介してもらったわけです。昼間は私の知り合いの企業で働きながら、夜はジムで指導をしてもらうと。

OGUNI GYMといえばパイブーンさんが有名ですが、チャイナロンさんが初めのタイ人トレーナーだったんですね。

そうそう。チャイナロンが仕事と結婚で忙しくなって、指導に来るのが厳しくなってきたんです。それで高津君(ソムチャーイ高津選手)に紹介してもらったのがパイブーンなんですよ。高津君が修行に行ってたフェアテックス・ジムで一番厳しく教えてくれるコーチだってことでね。

パイブーンが来てからですね、米田貴志、TOMONORI、中須賀芳徳、大槻直輝などのチャンピオンクラスが育ってきたのは。5、6人は出たんじゃない?チャンピオンが。パイブーンは厳しさの中に愛情があったから、みんな苦しくてもついて行ったんですよ。米田やTOMONORIなんてピッタリはまりましたね、パイブーンの指導に。

要は学ぶ側の問題。目的意識を持て

パイブーンさんと他のトレーナーとの違いとは何だったんでしょう?

パイブーンはね、技術云々をうるさく言うコーチじゃなっかたんですよ。要するに最終的には心の部分だっていうか、なかなか自分では鍛えられない部分を鍛えてあげられるし、引き出してあげられるコーチでしたね。

戦いの中で本当に苦しいときに、本当の力を出せる人間力というのかな。そういった人間力を作る手腕が、他のコーチとはまったく違いましたね。そこが理解できた選手はみんな強くなっていきました。

会長はパイブーンさんの指導に対して口を挟まなかったのですか?

私が教えられる範囲のことは教えたけど、基本的にはなにも。それに最終的には学ぶ側の問題ですからね、そういったことは。なんでもコーチに任せていれば強くなるってものでもない。コーチがいようがいまいが、学ぶ側がなにを求めて、なにを考え、どう行動するのか。

どんな先生に当たっても、あとは本人次第。しっかりと目的意識をもっている選手が伸びていくんだと思います。私もコーチがいない環境でそうしていたし、そういった部分は今の選手に当てはめてみても共通する部分でしょう。だから、こうしなきゃダメ、ああしなきゃダメってことはあまり言いませんでしたね。

貴重なお話しをありがとうございます。それでは第2部では、いよいよTOMONORI選手との思い出について、お話しを伺っていきたいと思います。

わかりました。なんでも聞いてください。

斉藤京二さんのインタビュー後編はこちら>>

【斉藤京二 プロフィール】1955年12月1日、山形県小国町出身。OGUNI GYM会長。1976年、鬼の黒崎道場で有名な目白ジムからデビュー。プロ10戦目にして5大タイトルマッチのビッグマッチに出場、Jライト級現役王者のワンプライに挑戦した。生涯戦績は64戦45勝(28KO)17敗2分。獲得王座は全日本ライト級、MA日本ライト級、太平洋マーシャルアーツライト級。現在はWBCムエタイ日本協会・会長、NJKF名誉顧問としても多忙な日々を送っている。

ジム・道場データ

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山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。