TOMONORI引退記念インタビュー第10弾 / OGUNI GYM所属・TOMONORIさん 後編

昨年10月に札幌で行われた格闘技イベント「BOUT-34」。メインイベントでは、札幌出身で日本が世界に誇るキックボクシング8冠王・TOMONORI選手が、現役生活にピリオドを打ちました。

MMA-ZENではTOMONORI選手の輝かしい功績に敬意を表して、全10回にわたる引退記念特別インタビューを企画。ご本人が登場するインタビュー後編は、いよいよ故郷・札幌の格闘技イベント「BOUT」参戦、悲願だったWBCムエタイのベルト獲得等、円熟期の話題に移ります。

日本キックボクシング史にのこるタイトルホルダー・TOMONORI選手が「一番強かった」と語る相手は誰だったのか?ファン垂涎のスペシャル・インタビュー後編。

▲国内屈指のタイトル・ホルダーだったTOMONORI選手。円熟期の最大の収穫は、悲願だったWBCムエタイのインターナショナル王座の獲得だった。

照準は旧K-1からWBCムエタイへ

全盛期を象徴する「MACH GO GOトーナメント」「ムエタイ3大決戦」を終えて、その後の目標という部分では明確なものはあったのでしょうか?旧K-1に興味をもった時期もありましたよね?

ありました。2008年の村浜戦が旧K-1出場への査定試合だったんですよ。話は村浜選手に勝ってから、みたいな感じで。村浜選手には勝ったんですが、なんといっても10kg差の試合でしたからね。改めて階級差というものを実感しました。「やっぱ止めとこう」と思いましたね。

すると目標を見失った時期があったわけですか?

いえ、もともとWBCムエタイに興味があったんです。

WBCムエタイといえば国際式ボクシングの老舗団体・WBCが認定している権威あるタイトルです。

あの緑色のベルトに魅せられたというか。当時、増田博正さん(WPMF世界ライト級)がWBCムエタイのタイトル戦を海外でやっていたんですよ。日本でもできないのかなって思っていた矢先に、日本統一王座も創設されて、タイトル戦の話をいただいたんです。

▲2008年、旧K-1出場の査定試合だった村浜武洋戦。勝利したものの、旧K-1出場は実現しなかった(写真はTOMONORI選手提供)。

一線を退くシナリオがあった、ロミー・アダンザ戦

日本統一王座は、2009年にバンタム級、2014年にフライ級と二本獲得しています。

バンタム級の島んちゅ戦は待ちに待った日本でのWBC戦だったし、初代王者ということもあって印象深い試合ですね。フライ級のニモ戦はパンチで相手の鼻が折れて、そこでストップしてしまった試合なんです。

「さあ、これから」というときに突然終わってしまったので、王座獲得の喜びというものが希薄でした。試合後にリング上で斉藤会長から「せっかく獲ったんだから喜べよ」って言われた事を憶えていますよ。

そして、その上の大陸王者同士で争うインターナショナル王座には2回挑戦して2回とも失敗に終わっています。

個人的には1012年のロミー・アダンザ戦で、東京での試合は終わりにしようと思っていたんです。この試合でWBCムエタイのインターナショナル王座を獲って、札幌に帰ってジム経営に専念しながら、たまに地元のイベントに出場するというのが当初のシナリオでしたから。

第一線を退く考えをお持ちだったんですね。では以前から、そういった考えを持たざるを得ない予兆があったのですか?

2010年の藤原あらし戦。この試合で何度かダウンを奪われてるんですが、試合中に「ヤバイ。壊れてる」と思いました。「引退」の二文字が脳裏をかすめたのはこの時からですね。

▲戴冠後、第一線を退くシナリオを描いていたロミー・アダンザ戦は、肘打ちによるカットでドクターストップ負け。TOMONORI選手はリングに大の字になり悔しさを露にした。

円熟期最大のヤマ場。WBCムエタイ・インターナショナル王座決定戦

しかし、藤原戦の後は三連勝。その中にはタイの地方スタジアムの王者も含まれていますから、ふたたび上昇気流に乗りました。そして2016年のシアリー・シティバ戦で、念願のWBCムエタイ・インターナショナル王座獲得に成功します。

WBCムエタイのベルトは本当にほしいベルトでしたから、この時ばかりはセコンドの言う事をしっかりと聞きました。初めてだと思いますよ。あんなにセコンドの言う事を聞いたのは。

当サイトでも取材に行きましたので、リングサイドで拝見したんですが、周りの人間が終盤になっても「行くなよ、行くなよ!」と騒いでいるんですよ。普通は逆ですよね?

「前に出ろ!」っていうのが普通ですからね(笑)。

判定なら楽勝だったのに、打ち合ってしまったばっかりにKO負けしてしまうケースが多いと聞いたのは、ずっと後なんです。だから、なぜ「行くな」と騒いでいるのか不思議でならなかった。

試合中に「もう、いってしまおうか」と何度も考えたんですよ。でも自分の気持ちを抑えて抑えて、作戦どおりに戦った試合ですね。本当に勝ちに徹したというか、別の意味で印象深い試合です。

▲2016年に行われたシャリー・シティバ戦で、WBCムエタイ・インターナショナル王座を獲得。3度目の挑戦。じつに39歳にして達成した偉業だった。

故郷・札幌へ。地元イベント・BOUT参戦

2012年には故郷・札幌でのジム運営がスタート。そしてBOUT参戦も重なりました。参戦当初は多忙だったと思いますが、モチベーションは維持できていましたか?

この時期は「痛い」ことしか憶えていないですね(笑)。とにかく怪我が多い中で戦っていた。このときほど試合に集中できない時期はありませんでした。2012年のパンデーン・シットモンチャイ(タイ)との試合は、前日までジムのオープン作業で忙殺され、調整する時間なんてなかった。おまけにカットした傷口が塞がっていないまま挑んだ試合だったんです。

肩の脱臼をガマンしてやってた試合もありましたよね?

2013年のガン・ビョンジュ(韓国)との試合ですね。棄権も考えたんですが、この興行は僕が出るからということでチケット料金も割高に設定されていたんです。チケットを買ってくれたファンを裏切るわけにはいかない。だけど、試合中に左のパンチを打つと「ゴリッ」と音がして骨がずれるんですよ。それをまた入れ直しながらの試合でしょう。痛いことしか憶えていないですね。

BOUTでの戦いを語る上で欠かせないのは、やはり引退試合の相手を務めたポール・ダ・シウバ選手との一連の物語です。

じつは前述した2012年のロミー・アダンザ戦がWBCムエタイの暫定王座決定戦だったんです。勝てば正規王者と戦うことになるので、正規王者は誰なのかを調べたら、それがシルバだった。だから、そのときから彼のことは知っていました。

▲TOMONORI選手の引退試合の相手も務めたポール・ダ・シルバ。2度に渡り名勝負を繰り広げた二人は、固い友情で結ばれている仲でもある。

引退試合。シルバとの決着戦へ

第一戦は2015年のISKA世界フライ級王座をかけての激突。モチベーションはいかがでしたか?

肩の手術をした直後だったので、腕が上がらない状態でした。顔を洗うのも一苦労といった状態でしたから、不安しかなかった事を憶えています。左が使えないから右で勝負するんですけど、右を出したら返しで左を出してしまう。そこは身体に染み付いている動きですから。

シルバ選手が引退試合の相手に決まった経緯というのは?

第一戦が終わってシルバがイギリスに帰ってからでしょうか。彼から「調子はどうだい?」とFacebookのメッセージが届いたんです。そこから交流が始まったんですが、話してみるとメチャクチャいい奴だった。その頃から「もう一度やりたいね」みたいな話をお互いにしていたんです。

そこでBOUT実行委員会さんから引退試合のお話をいただいた時に、シルバと戦って終われたら最高だなと思い、僕のほうから誘ってみたわけです。

この引退試合の模様は民放テレビでも特集されました。試合後、セコンド陣に試合中の出来事を尋ねている場面が映っていましたが、試合中は記憶が飛んでいたのですか?

▲引退試合となったシルバとの決着戦は、壮絶な1ラウンド決着だった。試合後、健闘を称えあう両者。(写真はBOUT実行委員会提供)。

やりたいことは全てやり尽くした

断片的にしか憶えていなかった感じですね。後で試合映像を確認してすべて繋がった感じです。それでも1Rに右のストレートをもらってダウンした瞬間のことは憶えていますよ。昔なら倒れないパンチでしたが、自分の意思とは関係なく、電池が切れたみたいに倒れてしまった。

あのとき「これは完全に壊れてるな」と思いましたね。最終的に左フックで敗れたわけですけど、他のどの技を喰らっても倒れてしまう状態だったと思います。だから最後は思い切って打ち合いに行けたと思うし、「あの時、こうしていれば・・・」という後悔が一切ないというのがなによりだった。

あらためて現役時代を振り返っていかがですか?

幸せな現役生活だったと思います。旧K-1の一番盛り上がっていた時期に参戦してみたかった気持ちはありますが、それ以外であれば、やりたいことは全てやり尽くしましたから。

海外でも試合をして。各国の強豪と拳を交えて。タイトルもたくさん獲れたし。普通の選手じゃできないことですからね。本当に恵まれた選手生活だったと思います。

本当にお疲れさまでした。それでは、ここからはファンから寄せられた質問も交えて、チャンピオンに素朴な疑問をぶつけてみたいと思います。

わかりました。なんでも聞いてください。

▲10年前、BOUTのリングに初登場したときの懐かしい一枚。いま思えば、大宮司氏とのエキシビジョンは興味深い組み合わせだった。写真提供:BOUT実行委員会 撮影:長尾 迪

一番強かった相手は誰だったのか?

ファンからの質問で多かったのはやはり「これまで戦ったなかで一番強かった相手は誰でしたか?」というものです。ズバリ、一番強かった相手は誰でしょう?

一番強かったのは2009年に札幌で戦ったペッチシーニル・ポータナボル選手(タイ)ですね。

BOUT-4でやった試合ですよね。あの試合は僕もリングサイドで観ていたので憶えています。公表はされていませんでしたが、かなりの強豪だったとか。

僕と戦ったときで、すでに本場タイのランキング上位にいたようです。僕との試合後、すぐにラジャダムナンのチャンピオンになっているんですよ。BOUTさんには前々から「強豪とやりたい」と希望をだしていたんですが、文句なしの強豪を当ててくれました。BOUTさんには色々とわがままを聞いていただきましたからね。感謝しています。

東京の興行でもなかなかお目にかかれない強豪ですからね。具体的な強さというのは、どういったところで感じましたか?

試合が始まる直前にリングの中央で向かい合うじゃないですか。僕は向かい合ったときに感じるオーラで大体の強さを測るんです。彼の場合、そのときに放ってるオーラからして違うんですよ。

これまでの相手はランカーだろうがチャンピオンだろうが、「ああ、こんなもんか」という感じだったんですが、彼は別格でした。向かい合った瞬間に「こいつはヤバイ」と思いましたから。

結果は肘で2RTKO負け。衝撃的でした。

ヤバかったですね。肘が頬骨の固い部分に当たったんですが、それだけで脳みそがグワングワン揺れちゃって。初めてでしたね、あんなの。

▲TOMONORI選手が「一番強い相手だった」と語ったペッチシーニル・ポータナボル。TOMONORI選手を下した後、タイの殿堂でもチャンピオンとなった。写真提供:BOUT実行委員会 撮影:長尾 迪

魔裟斗選手の集中力は凄かった

一番上手かった相手は誰ですか?

う~ん・・・。テクニック云々で言っちゃうとタイ人になっちゃいますからね・・・。「光をうまく消されたな」と感じたのは2010年に戦った藤原あらし選手でしょうか。あらし選手との試合では自分のいいところを全く出せませんでしたね。

藤原あらし選手との頂上決戦は業界内でもインパクトのあるカードでした

在日タイ人が賭けをしていましたからね(笑)。

現役時代に影響をうけた選手っていますか?

魔裟斗選手ですかね。彼は集中力が凄いんですよ。どんなにキツイ練習でも絶対に集中力を切らさない。あれはスゲェなと思いましたね。

そういえばシルバーウルフにいたこともありましたよね。あれは移籍だったんですか?

いえ。所属はOGUNI GYMのままなんですけど。それを許してくれた斉藤会長もすごいなって思いますね(笑)。

TOMONORI選手の“負けられなかった試合”とは?

昨今は「負けは絶対に許されない」といった状況下で試合をする選手が多くなってきました。その点、TOMONORI選手はそういった状況での試合が少なかったという印象をもっています。ご自身としてはどうお感じですか?

同感です(笑)。本当に自由奔放にやらせてもらったなと。

その中でも「負けは許されない」というプレッシャーの中で戦った試合がありましたら、教えていただきたいのですが。

2005年にタイの王宮前広場でやった試合ですね。というのも、日本から何十人も応援団が駆けつけてくれて、その中にはNJKFの藤田理事長の姿がありましたから。他に出場していた日本人選手が負けていく中、「こりゃ負けられん!」と緊張しましたね。

タイ王宮前広場というと、国王生誕記念大会のジャンモー戦ですね。5Rにノックアウト勝利。

4Rまで負けていたんですよ。セコンドのソムチャーイ高津さんにも「ポイントじゃ勝てないから、倒すしかない」と言われて、強引に倒しにいった試合ですね。王宮前広場だから何万人という観客でしょう?逆転KOしたときの会場の盛り上がりが尋常じゃなかったことを憶えています。

あと、国内であればMACH GOGOトーナメント、それからWBCムエタイの日本タイトル戦でしょうか。なんとなく斉藤会長が「TOMONORI、わかっているよな」と仰っているような気がして(笑)。「勝たなきゃマズいな」という緊張感をもって戦いました。

▲2005年のタイ王宮前広場で行われたビッグ・イベントで逆転KO勝ちを収め、日本選手団の面目を保った。応援団の歓声に応えるTOMONORI選手(写真はOGUNI GYM提供)。

長い選手寿命。その秘密とは?

選手寿命が長い選手はたくさんいますが、TOMONORI選手のように選手寿命が長く、しかもキャリア終盤であっても主要タイトルを獲得している選手は珍しい。キャリア終盤であっても高いパフォーマンスを発揮できた理由はどこにあるでしょう?

OGUNI GYMのパイブーン先生の指導が大きいと思います。あの過酷な練習があったおかげで、本物の基礎体力というものが培われたのではないかと考えています。

そんなに過酷なものだったのですか?

過酷なんてもんじゃないっスよ(笑)。パイブーン先生の練習はとにかく量を重視するんですが、最初は「こんなことやっていて意味あるのかな?」と感じていたんです。しかし歳を重ねるにしたがって、その重要性というものを実感していきました。

基礎体力といえば、キックボクシングにフィジカルトレーニングを逸早く導入したのもTOMONORI選手です。こちらも選手寿命という点では、大きな役割を担っていますか?

もちろんです。だからGRABSのジュニアコースでも積極的に導入しているんですよ。それから新設したピラティスコース。美容や健康への効果は説明するまでもありませんが、プロ選手を目指す方にもピラティスは絶対におすすめです。

僕も最初はヨガの延長みたいな感じで捉えていたんですが、全然違うんですよ。骨の動かし方を学べますからね。自分自身、10年前にピラティスの凄さを知っていたら、もっと良い戦績を残せたと思っているくらいです。

ありがとうございます。では最後になりますが、これからの目標・抱負といった部分をお聞かせください。

キックボクシングの良さ・楽しさというものを、色々な角度から伝えていきたいと思っています。いま力を入れているのはフィットネス部門。健康志向やダイエット、ストレス解消というニーズにも、しっかりと応えられるものがないと本当の意味での競技人口が増えていかない。

その点、GROOVE KICKGRABS Nightは大変好評をいただいています。また、アマチュア大会のG-ROUNDは、将来的にはランキング制度を作るのも面白いかなと思っています。

昔からアマチュアからしっかりと育成していきたいと仰っていましたからね。

はい。いきなりプロ選手を育成するんじゃなくてね。ハードルが低いところで入り口をたくさん用意しておくことは大切です。そういった意味ではダイエット目的で入会してきた会員さんが、いつのまにか大会出場をめざしているケースも数え切れませんし、その逆のパターンがあってもいいと思うんです。

要は会員さんそれぞれにキックボクシングの楽しみ方がある。「自分はこのレベルでキックボクシングを楽しみたい」となったときに、ちゃんと受け皿を用意してあるジムでありたいですね。

わかりました。今回は貴重なお話を本当にありがとうございました。

こちらこそ。ありがとうございました。

TOMONORI選手インタビュー前編はこちら>>
TOMONORI選手インタビュー中編はこちら>>

【TOMONORI プロフィール】1977年、札幌市出身。本名・佐藤友則。WMCインターコンチネンタルフライ級王座、UKF世界バンタム級王座、WBCムエタイ・インターナショナルフライ級王座等々、獲得タイトルは多数。本場ラジャダムナン、タイ国王生誕記念試合等でKO勝ちを収めているところも、日本人選手としては特筆もの。2018年10月28日引退。現在は札幌市東区に自身のジム「grabs」をオープンし、後進の育成に力を注いでいる。生涯戦績は59戦38勝19敗2分け。OGUNI GYM所属

ジム・道場データ

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山田 タカユキ

山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。
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