北海道ブラジリアン柔術界の父・俵谷実インタビュー:第一部

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北海道・札幌でブラジリアン柔術を伝えて二十年。LEGEND・本間祐輔をムンジアル(ブラジリアン柔術の世界選手権)の決勝へ導いた男・俵谷実氏が、これまでの柔術人生とコーチング哲学を語る、緻密な戦略と信念の戦いのストーリー。第一部を俵谷氏が歩んできた格闘技人生、第二部を氏のコーチング哲学にスポットをあててお届けする。

札幌でブラジリアン柔術を教える先生▲”最後の大物”俵谷実氏がついに登場。ロングインタビューでお届けする

ガンマニアだった少年時代

まずは先生の格闘技遍歴についてお聞かせください。はじめに習った格闘技はなんでしたか?

正式に習ったのは芦原空手なんです。その前は我流で友達とはじめたんですよ。

格闘技に興味をもったきっかけとは?

僕はガンマニアだったんです。中学校まではモデルガンを集めるのに夢中になっていた。結局、強いものに憧れていたんでしょうね。高校でアーチェリー部に入部したのもそんな理由からです。本当は射撃部がよかったんですが、無かったのでアーチェリーをやってみようかと。銃と同じで武器だからね。

アーチェリーの補強としてウェイトトレーニングで鍛えはじめたら、そっちのほうが面白くなってきて。弓があるのに体鍛えるのもなんだなって思って、それだったら格闘技の方がいいんじゃないかと思ったのが始まりでした。で、ちょうど同じ高校に極真空手をやっている奴がいたので、一緒に我流ではじめた。高校2年生、3年生くらいのころかな。

大道塾に憧れた学生時代

では、伝統派じゃなくてフルコンをはじめたわけですね?

そう、フルコン。もともと大道塾に入りたかったんですよ。そのころから総合志向だった。

あの時代ですと、大道塾はどうやって知ったんです?

月刊空手道。あの頃、空手をはじめていなかったのに、なぜか毎月買っていた(笑)。まだフルコン(月刊フルコンタクトカラテ)がなかった時代ですね。月刊空手道と武術(うーしゅう)しかなかったから。

そういえば、月刊空手道は大道塾をよく扱っていましたね。

そう。あの頃の月刊空手道は、大道塾をやたらフューチャーしていた。芦原先生の著書「実戦!芦原カラテ」が出たのはそのあとかな。それを読んで、すごい空手だと興味をもったわけ。でも実際に使えるのかなって疑問があった。実際の技術として使えるのかな、という疑問がね。

人生を変えた芦原カラテ▲「実戦!芦原カラテ」は今でも本棚の最前列にある

実戦で使えるのかどうか、「サバキ」に対しては懐疑的だったと。

ええ。でもね、東区体育館で友達と二人で練習している時に、芦原会館の方々とお会いしたんです。サバキみたいな動きをしていたから、「芦原カラテですか?」って聞いたら、指導されてる方が現・東京支部長の西山亨師範だった。

それでスパーを見せてもらったら、強いのがわかるんですよ。実際やってみたら捌かれまくって、キメられまくって。本当に突かれるんですよ、サバキって。それから道場に見学行っていいですかって話をして、見学に行ったらそのまま入会しちゃった。

大道塾から芦原カラテへ

結局、大道塾じゃなくて芦原会館に入門しちゃったんですね。

そう。その前から大道塾本部には手紙を送ってはいたんです。「入会したいんですけど、札幌に支部が出来る予定はありますか?」って書いて。そうしたら「帯広に練習場があるから」という返事が来て、帯広じゃさすがに通えないなって諦めてた。

芦原会館に入ってしばらくしてからですよ、大道塾から「札幌道場オープンします」って手紙が来たのは。いまさら遅いやって思いましたね(笑)。

もし大道塾に入門していたら、また違った格闘技人生を送っていたかもしれませんね。

この話には後日談があるんですよ。1999年に大道塾が主催した「THE WARS V」に、教え子だった山下志功(元修斗世界ライトヘビー級王者)のセコンドで帯同したんですが、その打ち上げで東孝塾長にお会いしたんです。

お手紙を出したにもかかわらず、芦原会館に入門した経緯をお話ししたら、「なんで待っていなかったんだ。君は破門だ!」って冗談交じりに言われましたよ。

入門していないのに破門だと(笑)。ところで俵谷先生は、あの頃のシューティングとかも通ってきているんですか?

修斗思想柔術▲二十代の頃。柔術着には「修斗思想柔術」と書いてある

通ってきていますよ、好きでした。空手やっているときも好きだったのはシューティングでしたから。佐山先生の本は欠かさず読んでいたし、週刊プロレスも買って読んでいた。芦原会館が表に出てきたのが85年頃だから、シューティングが出てきたのもそれぐらいでしょう。

なぜ、大道塾には手紙を送って、シューティングには送らなかったのですか?

自分の中でプロレスは好きなんだけれど、あれは関わってはいけないものみたいな固定観念があったんだよね。空手こそが本物みたいな。自分の中でそんな意固地な部分があって。

あの時代は空手というより、大道塾こそが最強みたいな空気でしたもんね。大道塾の信奉者が多かった。

とにかく、”なんでもあり”がやりたかったんです。ホントはシューティングっぽいことをやりたかったんだろうけど、自分の中ではプロレスはやるものじゃく見るものだという意識があったんですね。いま思えば不思議ですけど。

指導者としての原点

その頃の芦原空手は北海道大会とかあったんですか?

あるわけないでしょ。禅さんも正道会館出身なのに芦原会館のことよく知らないなぁ(笑)。

お恥ずかしい。円心会館とごっちゃになってるんです。

もともと円心会館の大会も、芦原会館がやっていた大会ですけれどね。サバキチャレンジは芦原会館時代からやってて、アメリカでやっていたんです。東京でも非公式でやっていたんですよ。僕も出場していましたから。

俵谷先生が芦原カラテの大会に出ていたと。それ書いても大丈夫ですか?

大丈夫だけど、いまさら芦原会館の名前出しても面白くないでしょう?

芦原会館というよりは、俵谷先生が大会に出ていたってところが面白い。ルールとしては極真ルールに「サバキ」が入ったみたいな感じですか?より「サバキ」を使った人がポイント高いみたいな。

普通にフルコンルールでしたね。「サバキ」が許されているフルコン。正道会館の空手をもうちょっと芦原空手っぽく、掴みがオッケーにアレンジした感じ。

もちろん最初は勝てませんでした。だから勝てる方法を必死に考えて、その方法を弟子に授けたら徐々に結果を残せるようになった。あれが指導者としての原点でしたね。

第1回全日本ブラジリアン柔術選手権▲第1回の全日本BJJ選手権では準優勝だった。左は弟子の山下志功

第一回UFC。グレイシー柔術の衝撃

結局、芦原会館にはどれくらい在籍されたんですか?

13年間。二段までいきましたよ。最後のほうは先生が忙しくて道場に来れなかったので、僕が全部仕切ってた。審査会があったりしたら先生が仕切ってくれたんですが、普段の指導は僕がリーダーでやっていました。

事実上、支部長みたいな感じだったわけですね。それからブラジリアン柔術に転向ですか?

いや、芦原会館時代とかぶっているんですよね。第一回のUFCがあったじゃないですか。あれを見たときに「柔術もやらなきゃヤバいな」って思ったんですよ。

あの頃はまだグレイシー柔術を習うっていう意識はなかったですよね、日本人には。もとから俺たちが持っていたもので倒すっていう感覚でしたから。

そうそうそう。でも僕はね、何もやらなきゃ負けるだろうって思った。こっちも学ばなきゃ負けるっていう確信があったんです。

独学ではじめたブラジリアン柔術

具体的にどこで学びはじめたんですか?

僕はハワイで習ったのが最初。ハワイに行く前も、グレイシー柔術のビデオを輸入してた人がいたんで、取り寄せてもらって研究していた。

取り寄せたビデオは、試合映像ではなく教則用ですか?

教則用でした。でも試合のもあったんですよ。道場破りばっかりを集めて撃退する洗脳ビデオがあるの知りません?

洗脳ビデオ?そんなのがあるんですか?

ひたすら空手とかカンフーの連中をフルボッコにしている映像を、ホリオンと解説者が「いかに柔術が優れているか」を延々と語り続ける洗脳ビデオなんですよ。それ見ちゃったら、こっちも柔術を学ばないと勝てないって思いましたね。「グレイシー・イン・アクション」ってビデオがあったの知りません?

初耳ですね。そんなの普通に出回ってるもんなんですか?

第1回UFCが終わったときに、グレイシーは真っ先にそれをビデオにして売ったんですね、宣伝のために。日本でも業者が輸入して売ってました。6~7千円のVHSでね、興味ある人はみんな買ってましたよ。

1998年、創設間もない頃▲1998年、創設時のパラエストラ札幌のメンバーとともに

ハワイでの誓約書事件とは?

なるほど。俵谷先生は早くからそういった映像を取り寄せて見ていた。では、第2回UFCに大道塾の市原選手が出たときも・・・・?

勝てないと思った。憧れの大道塾が負けるのは残念だったけど、絶対に勝てないと思ってました。

そしてついにハワイまで行ったと。いきなり行って教えてもらえるんですか?

そのときに「お前、バーリトゥードで戦うんだったら、教えられないから一筆書いてくれるか?」って言われたんですよ。「グレイシー柔術とは戦いません」と、誓約書を書かないと教えないって言われた。

要するに、道場破りをするかもしれないと疑われた?

そのころは教えること自体がダメな時代だった。そもそも格闘技で戦うために習うのもダメで、向こうもすごく警戒していたんですよ。「空手の経験者だ」って言ったら、「バーリトゥードでグレイシー柔術を負かすために学びたいのなら教えられないから、もしものために一筆書いてくれ」って。

昔の日本の柔術家も、技術は絶対に秘密にしたらしいですからね。どうやってその場をきり抜けたんですか?

グレイシー一族を騙した男

ちょっとした作戦を立てていたんです。じつは日本を発つまえにホリオン・グレイシーの道場の柔術着を極秘に入手していたんですよ。それで、その場でホリオン道場の柔術着を見せたわけ。そうしたら向こうの態度がコロッと変わって、「ホリオンの所でやっていたんなら、早く言えや」みたいな話になった(笑)。

実際はホリオンの道場になんて行ったこと無いし、柔術着しか持っていなかったんだけど、日本にいるときから映像を取り寄せて勉強してたから、動きを知っているじゃないですか。結局「なんだ、お前できるじゃないか」って、フレンドリーに接してくれた。作戦大成功でしたね。

天下のグレイシー一族を騙した男(笑)。それは最初からの作戦だった?

もちろん。作戦、作戦(笑)。

でも、俵谷先生がハワイに行った頃って、中井祐樹先生ですらブラジリアン柔術を始めてない頃じゃないですか?

やってない。僕のほうが早い。

日本で一番早く行ったんじゃないですか、もしかして。

いやいや、もっと先に行っている人がいるはずなんですよ。でも道内なら僕が一番早いでしょうね。

帰国してからの練習はどうしていたんですか?

芦原会館の弟子に、中井先生の北大柔道部時代の後輩がいたんですよ。その子は寝技が強かったんで、よく一緒に練習していましたね。寝技も習いつつ、グレイシー柔術で習った技を研究しながらって感じ。空手の稽古が終わったあとの道場とか、市の体育館で練習していました。

柔術練習会、中井氏、若林氏も▲パレストラ平岸の名前でやっていた頃。中井氏、若林氏もいる

中井祐樹氏と運命の出会い

中井祐樹先生との出会いはどういった経緯で?

バーリトゥード・ジャパン終了後に、中井先生が独立して柔術道場をやるかもしれないって話を、その後輩から聞かされたんです。独立するなら僕も習いたいと思って、後輩に連絡をつけてもらったのが最初。97年の10月か11月でしたね、中井先生と若林太郎さんと3人で新宿で会ったんです。

当時はパラエストラの支部を開くんじゃなくて、中井先生に東京で習って、札幌で練習するみたいな感じができればいいと思ってた。結局、若林さんの勧めでパラエストラ・ネットワークの第一号支部としてスタートすることになったんだけど。

最初はどこではじめたんですか?パラエストラ札幌は。

芦原会館が借りていた板の間のバレエスタジオ。週4日借りてるうち、週2回は普通の基本からやるクラス。残りは試合に出る選手用に強化練習。98年の2月にオープンしてすぐに40人入会してるんですよ。みんな柔術に飢えていたんでしょうね。

柔術会員が40人も入会?すごいですね。その頃はどうやって募集していたんですか?

格闘技雑誌に若林さんがコラムを書いていて、パラエストラの札幌支部がオープンするって書いてくれたんですよ。あと、日刊スポーツや北海道新聞が取材に来てからは問い合わせの電話が鳴りっぱなし。日刊スポーツに出たときは一日中電話が鳴りっぱなしだった。

そのころに入会したのが、プロシューターになった加藤”ジェット”シンとか、本間祐輔ですよ。本間なんて、まだ16歳の頃ですね。恵庭から通って来てきてくれました。

結局、2ヶ月位バレエスタジオでやって、貯まったお金を元手にして雑居ビルの2階を借りました。そこでは床にジョイントマットを敷いてね。いまの場所に移ったのは、そのまた後ですよ。

柔術の神に愛された男・本間祐輔

本間佑輔さんといえば、日本人として初めて世界柔術選手権の決勝に進出した日本柔術界のLEGENDですね。どのような指導で才能を開花させたんですか?

まぁ本間に関していえば、もともと才能がありましたから。そういった逸材をたまたま僕が預かっただけで、僕が強くしたわけじゃない。しいて言えば、そういった選手を呼び寄せる”運”のようなものを僕が持っていたんでしょう。

物事に偶然はないといいますからね。運命的なつながりがあったんでしょう。

本間にはこんなエピソードがあるんです。ある日突然、見たこともないテクニックを使い始めるんですよ。僕が教えていないテクニックをね。「いまの技、どうしたの?」って聞くんだけど、本人も「突然ひらめいたんです」としか答えようがない。そしてしばらくすると世界同時多発的にそのテクニックが流行りはじめるんです。しかも一流選手の間で。

さすがLEGEND、興味深いエピソードです。

僕が思うに、あいつはブラジリアン柔術の神に愛されているんですよ。地球上の何人かにしか降りてこないテクニックが、あいつには降りてきてるんです。そんな不思議な出来事が何回もあったんですよ。一回きりじゃなくてね。

札幌に来ている海外旅行者が、滞在中の練習場所としてパラエストラ札幌を選んでくれるんです。「どうしてうちに来たの?」って聞いたら、「ユースケ・ホンマのいた道場だから。プロフェッサーに会ってみたかった」と言ってくれる。さっきも言ったように僕が強くしたわけじゃないんだけど、光栄なことですよね。

現在の場所へ移った頃▲現在の場所に移転した頃。俵谷氏の茶髪姿は貴重なショット

この仕事が天命だと思っている

現在の場所では定休日なしで、クラススケジュールも朝から晩までと幅広い。これって道内じゃ珍しいですよね?

そうかもしれないですね。専業で食っていて、ずっと道場に居てっていうのは僕だけだと思う。結局、個人のやっている道場っていうのは居酒屋なんじゃないかと思うんです。

いくら優秀なインストラクターいっぱい揃えたって、メインとなる先生がいつ行っても居るもんじゃないと。流行ってる居酒屋ってそうじゃないですか。あの親父がいるから行こうと思うわけだから。名物オヤジが居ない店には人は居つかないですよ。

一日中、自分が直接教えるということですよね。それってすごいよねって話、業界関係者ともするんですよ。

僕にとってはそれが当たり前。そうしないと選手の変化に気づかないし、上手にケアできない。結局、中井先生と同じで指導が好きなんですよ。この仕事が天命だと思っているから。

昔の剣術道場の先生ってみんなそうだったらしいですね。

そうそう。昔の道場なんですよ、うちは。こんなにガッチリ神棚を祀っているブラジリアン柔術の道場はないでしょう。そういう意味では昔の剣術道場とかに近いですね。僕自身、ブラジルの柔術をやってるつもりはないし、日本の柔術・日本の心なんですよ。

わかりました。では、第二部では俵谷先生のコーチング哲学についてお尋ねしていきたいと思います。

北海道ブラジリアン柔術界の父・俵谷実インタビュー:第二部はこちらから>>

【俵谷実 プロフィール】札幌市出身。実戦空手「芦原会館」の指導員を経て、中井祐樹氏が立ち上げたパラエストラ・ネットワークに参加。第一号支部としてパラエストラ札幌を立ち上げる。以降、チャンピオン、ランカーを含め幾多の名選手を輩出。指導者実績では道内随一。日本の古流武術をはじめ海外の武術にも造詣が深く、今ハマっているのはフィリピン由来の武術、カリ・シラット。私生活では日本酒などの純和風のものを愛する。最近愛した純和風ものは「シン・ゴジラ」。2005年からつづく稽古ブログは必見。

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山田 タカユキ

山田 タカユキ

1971年生まれ。おもに格闘技イベント「BOUT」に関するレビュー記事や、出場選手へのインタビュー記事を担当。競技経験は空手・キックボクシング、ブラジリアン柔術。愛読書はさいとうたかおの「鬼平犯科帳」。
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